【文字を聞く・多和田葉子】言葉に対する新鮮な感覚を保つことの大切さ

学び

文字を聞く

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はドイツ語で小説を書いている作家としてよく知られている作家、多和田葉子氏のエッセイを取り上げます。

彼女は1993年『犬婿入り』で芥川賞を受賞しました。

お読みになったことがありますか。

あれ以後、次々と作品を発表しています。

その活躍ぶりは多様性に満ちているという表現がぴったりです。

ノーベル文学賞の受賞者候補にも名前があげられているほどなのです。

今回のエッセイは言葉の壁をいつも意識しながら、創作を続けているから故の文章です。

以前、琉球大学法文学部の小論文入試問題として出題されました。

内容は大変にユニークなものです。

ワープロソフトを利用することで、想像もしなかった語彙が頭の中に溢れ出てくるといった話が発端です。

具体例がたくさん載せられています。

それらを読んでいるだけでも楽しいです。

いくつか例をあげておきましょう。

「寝台車」が「死んだ医者」、「漢語」が「看護」、「ひやといにんぷ」が「日雇い妊婦」といった具合です。

「織り込んだ」が「お!、離婚だ」などというのもありました。

特に「死んだ医者」という表現をみた時には、ひどく不気味さを感じたといいます。

自分が1番上の寝台に寝ていて、下に変な男の寝てい姿を何度か夢にみたことがあったからだそうです。

その男はいつも白衣を着ていました。

医者であったに違いないのです。

それは死装束の経帷子を着た死人だったのかもしれません。

そう考えると、1つの変換ミスが、想像力を広げ、多義性という落とし穴に落ちていく可能性に満ちているというのです。

この話を導入にして、文学の翻訳という本題に入っていきます。

課題文の後半部分を読んでみましょう。

課題文

日本ではこれまでは、異文化との出会いは、すでに慣れた日本語の語りに置き換えられた外国の風物を消費するという形で行われてきましたが、

直接に別の文化にぶつかって、自分が変わりながら、相手を誤解しながら、新しい司会を開いていくということがあまりなされなかったように思います。

あらゆる理解が一種の誤解であることを思えば、いかに緻密で洞察力のある創造的な誤解をするかということが問題となってくるわけで、その際、言語の果たす役割は非常に大きいわけです。

情報を伝える道具として使われる言葉は無力です。

「暴力はいけません」という文章が、暴力を防ぐ役に立たないのを見ればわかります。

言葉の力は、耳に入るたびに生まれ変わることによって生まれ、それは言葉の不思議さへの新鮮な驚きを忘れてしまえば衰えてしまうのです。

この驚きは、言葉を外から眺めるときに感じやすいものなので、外国語を学ぶ人たちが世界的にたくさんいれば言葉は活性化されるわけです。

もちろん、母語として磨かれて複雑化され繊細化されていく中で言葉は発達していくのですが、そればかりだと、老化して生命力を失ってしまうので、外から同じ言葉を違った風に使う外国人たちが必要となってきます。

わたしが、わざわざドイツ語でも小説を書いている理由のひとつはそこにあります。

また、わたしの方も母語を離れて、ものを見ることで初めて見えてくるものもあるわけです。

そのひとつとして、ドイツ語を通して初めて鮮明に見えてくる日本語や日本の諸文化の側面というのもあるように思います。

よく、英語で小説を書くアフリカの作家などに対して「アフリカの現状はアフリカの言葉でしか語れないはずだ。」とか、

「英語を使うことでアフリカ文化の崩壊と西洋化に荷担している。」などという批評が出ますが、これは書くということへの誤解から来ているように思います。

言語はわたしたちにとって他人なのであり、たとえ母語であっても、人間の身体と言語は別々の生き物です。

両者の関係性に関係しながら、いかにして、言語と関係していくか、というのが、書く者の考えるべきことであって、

日本人の心とか、日本語というものがひとつの文化としてすでにそこにあるわけではないのです。

あえて日本の文化の特徴はと言われれば、異質なものをどのように排除し、また受け入れるか、そのやり方そのものが日本的だと言えるかもしれません。

だからいわゆる自分の「アイデンティティ」を探して、いわゆる自分の話ばかりする、というコンセプトでは、経済的な暴力としてのグローバリゼーションに抵抗することはできません。

これでは、むしろ自分という幻想に閉じ込められてしまうだけではないでしょうか。

外国語を学ぶことは、境界を超えるためというよりは、境界を、政治に利用される前に、文学的に作り上げ、それを使って遊び、豊かな国境地帯を想像することにあるように思います。

問題

筆者が指摘している「緻密で洞察力のある創造的な誤解」の重要性について、あなたの考えを具体例をあげながら800字で述べなさい、というのが設問のすべてです。

「緻密で洞察力のある創造的な誤解」という表現の内容をきちんと理解することが、ここでは最も大切です。

筆者は何のことをそう呼んでいるのでしょうか。

最初に考えるべきなのは、彼女が外国語で小説を書いているということです。

そのときに、どのようなことを日々感じているのか。

一言でいえば、母語でない言葉を使うことで、外からの視点を自分の中にとりこめる可能性に満ちているということを強調しています。

言葉への驚きを常に保ったまま、新しい生命力をそこに吹き込むことができると信じているのです。

それがアイデンティティと母語との関係を突き崩し、新鮮な視点を導入する契機に満ちているということです。

キーワードはズバリ「創造的な誤解」です。

新たな文化の可能性を言葉を通して切り開くための手段なのです。

そのためにまったく違う視野をもった人間が、母語でない言葉で表現を試みることの可能性がどれくらいあるのかということです。

母語でない言葉

例えば、日本で現在使っている文字は、中国から伝来したものです。

そこから自分たちの文化にあうように、日本人はかな文字を生み出しました。

これもある意味、創造的な行為でしょう。

「誤解」という表現を使ってしまってもいいのかどうかは、意見の分かれるところですが、強く言いきれば、それも可能です。

もう一度、設問を読み返してみましょう。

「あなたの考えを具体例をあげながら」という部分の表現をきちんと読み込んでください。

すなわち、必ず具体例を入れないと減点されます。

あなたなら、何を例にしますか。

創造的な誤解が、新しい言語表現を生んだ例を明記しなくてはならないのです。

外国語で小説を書くという行為も当然、意味を持つでしょう。

rawpixel / Pixabay

漢字からかな文字を作り出したことも1つの例になり得ます。

あるいは和製英語と呼ばれている表現で新しい可能性を切り開くことも可能もしれません。

しかしそれによって、日本語が乱れてしまうというデメリットもあり得ます。

言葉を短くすることが日本人は得意です。

コストパフォーマンスを「コスパ」という表現に縮めることは、よく知られています。

今は「タイパ」などという言葉もあると聞きました。

これはタイムパフォーマンスを意味します。

こうした新しい表現を「緻密で洞察力のある創造的な誤解」と表現するにはやや無理があるでしょう

1つの文化は異なる他の文化と交わることで、新しいものを生み出します。

いつまでも過去のものを固守するだけが最善の方法ではないはずです。

だからこそ、違う領域のものに対する鋭い視点を持続して持ち続けることが大切なのです。

そのことを自分の体験に即して論じていくことが大切でしょう。

筆者の論点を否定することももちろん、可能です。

しかし時代は常に変化しています。

それを頑迷に拒否するだけというのには、あまりにも無理があると思われます。

両者の接点をどこにもっていくのが最善なのか。

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それをじっくりと自分の言葉で考えてみてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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