流言とメディア
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はかなり根本的な問題を考えます。
結論を出すのが難しいテーマです。
筆者は社会学者・佐藤卓己氏。
ドイツ現代史から研究を広げ、大衆文化論や比較メディア史について議論の枠を伸ばしている方です。
私たちは日常的にフェイクニュースと呼ばれるものに、晒されていますね。
どこまでが真実か全くわからない闇の中を、歩いているようなものです。
進化したAIは記事だけでなく、映像も牛耳っています。
世界の未来を手玉にのせることさえ、可能な状況になってきました。
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誰もがビッグデータと向き合っているのです。
そのウェブ空間の中では、メディアによる流言など日常茶飯事です。
日々、どこまでが真実であるのかを見極める目を持ち続けなければなりません。
しかし、現実はそれくらいの熱意では追いつかないレベルに達しつつあるとも言えます。
新しい時代を人間はどう生き抜けばいいのか。
最新の喫緊なテーマです。
フェイクニュースのない、客観的な情報の空間の広がりは、どういう意味を持つのでしょうか。
砂漠のような場所なのか。
あるいは巨大な葉の生い茂った密林なのか。
それとも穏やかな楽園か。
現在、来年度入試で小論文に出題されそうなテーマを考えています。
最初にイメージされるのは、やはりAIでしょう。
人間はつねに戦争を行っている動物です。
当然、そのためにこのシステムを最大限に使うはずです。
AIはインプットされた情報を、縦横に活用し計算し続けるでしょう。
どこまでが客観的で、どこまでが正確なのか。
その判断までもが、難問となりつつあります。
『論理国語』の教科書に所収された佐藤氏の本文の一部を掲載します。
本文
私たちはAIが本格的に利用される次のステージも想定しておくべきだろう。
ビッグデータから文章を自動生成し、それを自動校正システムにかけて記事を出稿するAI記者はすでに実用段階に入っている。
AIの開発では客観的で信頼できる情報システムが目指されている。
アルゴリズム次第では人間の能力を超えた水準で誤情報、あるいはフェイクニュースを排除することは可能である。
AIを使った流言の排除により、「真実の時代」を実現することもできるだろう。
問題はフェイクニュースなどメディア流言が消えた社会が果たして「良い社会」となっているかどうかである。
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AI駆動の「真実の時代」において、人間はその情報が正しいかどうか悩まなくてもよいとすれば、それは人間にとっては快適な情報環境にちがいない。
ただし、ウェブ上の快適な政治が良い政治とは限らないように、こうした快適な情報機関が本当に良い世界になるといえるだろうか。
誤情報は全て排除して正しい情報のみを残すべきだ、そうした主張はなるほど正論である。
一方、この正論は歴史上しばしば社会の多様性を抑圧する権力側の口実として利用されてきた。
そして公共メディアで「正しい情報」のみが伝えられた全体主義国家は、流言にあふれた社会であった。
しかしAI時代の全体主義国家であれば、代替的事実である流言をメディアから完全に排除する「クリーンな情報社会」を実現できるかもしれない。
さらに、より根源的な問いに目を向けたい。
そもそも客観的で信頼できるAI制御の情報空間で、人間は本当に幸せに暮らせるのだろうか。
人間の幸福
この文章を読んで、あなたが考えたことを800字でまとめなさいという問題が出題されたとしましょう。
副題はAI時代の幸福とは何かというものです。
メディアから流言がなくなり、クリーンな社会が完成した時という、仮定の空間をイメージしてください。
その中にいる人間は、本当の意味で幸福なのかどうかということです。
言い訳が全くできなくなった改善余地のない完全なシステムの中にいる人間は、どういう行動をとるのか。
これは非常に厄介な問題です。
人間はつねに「曖昧さ」の中で生きている生物だからです。
本当かどうか、はっきりしない情報の中で、あくせくと暮らしているのが実態です。
それを完全なクリーンルームの中で生活してみろ、といわれているようなものです。
そこには雑菌がなにもありません。
つまり病気にかかる心配がないのです。
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情報は全てビッグデータに集約されます。
そのターミナルとして、私たちはPCやスマホを持っています。
正確な判断が次々とガジェットを通じて舞い降りてきます。
それを判断の材料にしていれば、ミスをすることはほぼありません。
自らの生命の限界までも、直視することも可能になるのです。
効率的であるといえば、これ以上の最適解はないでしょう。
しかし問題がないワケではありません。
人がその状態を幸福と感じるのかという哲学的な問題です。
既にこの段階で、人がAIを操っているという構図をはずれつつあるのです。
もしかすると、人間がAIに命令されている状態と何もかわりません。
そこで見えている風景は、人が望んだものであるのかどうか。
それさえもが疑問の対象になるのです。
確かに流言はすばやくカットされます。
そこにアルゴリズムが作用するからです。
効率的であるというならば、これ以上の状態はありません。
ポイントはそれが人間にとって幸福なのかということにつきます。
どう生きるか
小論文のテーマとして、与えられた問題をどうクリアするのかは難しいです。
しばらく前に「ファジー」「ゆらぎ」という考え方が大きく取り上げられたことがあります。
効率性を重視するあまり、誤りのない社会が人を息苦しくさせるという考え方です。
そこから人は、一定の曖昧さの中にあるときが、最も人間らしい活動がとれるのではないかという仮説をたてました。
確かに曖昧な流言がメディアに残されることは、褒められるべきことではありません。
しかしそれ以上に自分が、AIに全て支配され、それ以外には何も許されないとなると、ある意味専横主義を標榜しているといえないこともないのです。
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政治的に異なる意見は、そのために用意されたアルゴリズムで抹殺することも可能です。
事実、そのように体制が組まれている国家もあります。
AIは人間のインプットした情報に素早く作用します。
それが正か否かを峻別することはしません。
そこが最も怖ろしいこのシステムの性格ともいえるでしょう。
曖昧さやゆらぎのなかに身をひたすことで、人は安逸を覚えられるのかもしれないのです。
筆者の論点もそこに収斂しています。
この評論の最後の部分をここに書き抜きます。
大切なことはここに示されていると考えた方がいいでしょう。
「この情報は間違っているかもしれないという曖昧な状況で思考を停止せず、それに耐えて最善を尽くすことは人間にしかできないことだからである。」
つまりどのような状況になっても、考えることをやめるなと彼は主張しています。
その結果、「疲れ」を覚えることは当然あるでしょう。
それでも覚悟をもって生きていくことが、最終的には人間に与えられた唯一の方法であり、宿命だと呼べるのかもしれません。
非常に難しい局面にまで、人間は達しつつあるのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。