【過剰性と希少性】見せかけに騙されて人間は欲望を増殖させていくのか

学び

過剰性と希少性

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は人間の欲望はどこから来るのかという問題について考えてみましょう。

人間の日々の暮らしには、理屈では割り切れない不可解な側面が多いですね。

多くの人々は宝飾品として真珠のネックレスを持っています。

価格が高いものの方が良質だと考えています。

予算が許せば、やはり高価なものが欲しくなるのかもしれません。

ブランドもののバッグも虚栄心をくすぐる装置のようです。

全く関心がないという人でも、有名なデザイナーの名前は知っています。

本当にそのバックがいいものなのかと訊いてみると、本当はよくわからないといった答えが戻ってくることが多いのです。

希少なものだから、価値があるのか。

高価だから、いいものなのか。

高級時計などの貸し借りにからむ最近の事件報道などをみていると、なぜ買ったものを人に貸して、そこから利潤を得ようとするのか、よく理解できないところがあります。

案の定、詐欺的な犯罪にまきこまれていくという構図も、予測できないワケではありません。

力や富を他者に誇示したいという欲望が先なのか、それによって経済的な利益を得たいのか。

それも本当はよくわからないのです。

仮に生活に必要なものが既に最低限揃っている場合を考えてみましょう。

そこから先は過剰なものが氾濫し始める世界です。

なぜそのような現象が起こるのか。

さまざまな研究者が見解を発表しています。

その中でもよく社会学でとりあげられるのが、「ポトラッチ」ですね。

ポトラッチのシステム

あなたはこの言葉を聞いたことがありますか。

例によくあげられるのが、アメリカ北西部のインディアン諸族のあいだにみられる贈与の風習です。

これを「ポトラッチ」と呼んでいます。

宴席で他の部族の招待客に対して、大量の贈り物をするのです。

時には生贄を殺したりもします。

家を焼き、寝具を燃やしたりすることもあります。

あまりにも過剰な贈与のともなう不思議な儀式なのです。

招待された客は後日、それに倍する返礼をしなければなりません。

部族同士のマウントの取り合いといえば、そういえるかもしれません。

自分にとって大切なものをあげることで、他者に対する敵意がないことを証明するといわれています。

なぜこのような行為をするのか。

さまざまな社会学者が分析を試みています、

基本は人間の「過剰性」によるとする意見が強いです。

フランスの思想家、G・バタイユによれば、太陽が人間の生命維持以上の過剰なエネルギーを与えたためだというのです。

あまりにも過剰になったエネルギーを浪費しない限り、人間は社会を維持できないとする考え方です。

この「過剰性」の処理のために、富の破壊、戦争、教会の建立などがあったと考えると、理解しやすいというのです。

さらに富の破壊という壮大な浪費が人道的に許されないことだと否定された時から、人間は経済成長を始めたという考えもあります。

我々人類はその歴史のほんの僅かな期間しか、資本の蓄積、成長経済などを経験していないのです。

ポトラッチは卑近な例でいえば、日本における盆暮れの贈答などもそれにあたるのかもしれません。

相手に対する親愛の情を、品物に託して送るという風習です。

贈与された方は、それと同等の商品を送り返します。

地域によっては「半返し」「倍返し」という考え方もあります。

深いところで、同じようなことをしている民族は多々あるはずです。

経済学者、佐伯啓思氏の「過剰性と希少性」という評論を読みます。

本文

ゲオルク・ジンメルは「貨幣の哲学」において「欲望」は距離によって生み出される、といった。

つまり、自給自足に必要なものをいつでも調達できるとすれば、誰もそれを「欲望」しない。

あるモノについて他者と競合するからこそ「欲望」が発生する。

対象との間に障害があり、距離ができるからこそ、その対象に対する「欲望」が発生するのだ。

だから、他者がほしがっているモノをほしがるという相互模倣的な欲望は、それ自体がいっそうの「欲望」を生み出すことになる。

ここにはどうにもならない「距離」ができるからだ。

こうして相手の行動を模倣することで「欲望」が作り出されるのである。

もっといえば、このことを次のようにいうこともできよう。

人は、そもそも「自分本来の欲望」などというものを持っているのだろうか。

いかなる近代的な合理的人格の持ち主であれ、自分が何者であり、何をほしがっているかを完全に知っている者などいない。

人は、自分が何者であるか、容易には答えが出せないのと同様に、自分が欲しているものが何かなどわかりはしないであろう。(中略)

だからこそ、「他者の欲望」を模倣しようとするのである。

欲望」はあるものの、その意味内容は空白であるような空虚な部分に、われわれは「他者の欲望」持ち込むのである。

人間本来の欲望とは

人間はもともと、どのような欲望を持っているものなのでしょうか。

これは根本的な疑問です。

本当はよくわからないというのが正しいのかもしれません。

子どもをみていれば、気づくことがありますね。

子どもは、他の子どもが持っているものがほしいのです。

このことは兄弟喧嘩などをしている様子を観察していれば、よくわかります。

たとえば弟が何かのオモチャを手に取った途端、兄がそれを奪い取り、争いが生じるケースが多いです。

つまり「他者の欲望」を手に入れるという構図です。

欲望を模倣し、交換することで、他者とのコミュニケーションを完成させていくという図式は、人間だけのものではありません。

モノが過剰だからこそ、欲望がうまれ、またそれをテコにして、次の感情が生産される。

その場合、人間は相手との距離をはかるために、貨幣を必要とします。

貴重なものはめったに手が入りません。

そのために、多量の貨幣を投入しなければならないのです。

他者との距離を縮めるために、名誉や虚栄心を満たすために。

人間はなんと悲しい宿命を背負っているのでしょうか。

同じマンションであっても、タワーマンションの場合など、どの階に住むかによって、おのずと価値のシンボル的な要素が異なると言われています。

他者との距離を縮める手段としての貨幣が、逆にその距離を遠ざけるという矛盾も生み出してしまいます。

どうしても人は、欲望の持つ魔性にとらわれ、荒野の中を歩き続ける以外に道はないのかもしれません。

その時に人は何を思うのでしょうか。

さらなるポトラッチが必要になるのか。

企業は商品をさらに売るために、資本の論理を駆使して幻影を振り撒きます。

もう十分に過剰であるという現実を忘れさせ、さらに商品を売るためには、どんな方法でも使うのです。

刺激的なCMを大量に流し、パッケージのデザインをかえ、イメージキャラクターを替えます。

人間はこれからも太陽による熱を得て、蕩尽を繰り返し、疲れはてていくのでしょうか。

あるいはあらたなバベルの塔を建てるのか。

ノアの箱舟にのって逃げ去ろうとするのか。

いずれにしても未来への構図を、今の段階で容易に描くことはできないのです。

この問題は経済と欲望の関係を並列に眺めた時、必ず出てくる問題です。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

注 ゲオルク・ジンメル ドイツの哲学者・社会学者

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