【富士山記】平安時代の儒学者が残した霊山への畏敬【漢詩文の傑作】

日本人が書いた漢詩文

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は日本人が書いた漢詩文の本の話をします。

『本朝文粋』という書物をご存知でしょうか。

「ほんちょうもんずい」と読みます。

この本は平安後期の儒学者、文人の藤原明衡(あきひら)が編集した邦人の漢文の総集です。

14巻で構成され、嵯峨天皇から後一条天皇までの時代に生きた68人の漢詩文427編が収められています。

つまり日本人が全て漢文で書いた文章を集めた本、と考えればいいのです。

今でいえば、全て横文字だけで纏めたアンソロジー、と考えればいいのではないでしょうか。

識字率がはるかに低かった時代です。

漢字だけで文章の書ける人がどれほどいたことか。

その事実から考えると、途方もない話だということがよくわかるはずです。

主な筆者は当時のすぐれた文章家ばかりです。

大江匡衡(まさひら)、菅原道真(みちざね)、兼明(かねあきら)親王などの名前を聞いたことがあるでしょうか。

koshinuke_mcfly / Pixabay

彼らは歌人としても有名ですが、漢文に対する造詣も深かったのです。

その中で今回取り上げるのは都良香(みやこのよしか)です。

彼の漢詩文『富士山記』を読みます。

高校では扱うことがありませんでした。

日本人の書いた漢詩文では『懐風藻』『日本外史』、あるいは漱石の漢詩などは教科書にも少しだけ所収されています。

入試にも出題されたことが何度かありました。

しかし、ここでとりあげる都良香については、ほとんどの人が知らないのではないでしょうか。

彼は平安時代前期の学者で、詩文に長じた文章博士でした。

「文章博士」(もんじょうはかせ)というのは今でいうところの文学博士です。

大学寮において講義をし、天皇や摂関家の依頼を受けて漢詩を作成したり、文章を執筆するのが仕事でした。

和漢の古典に通じていなければ、できない高度な役割だったのです。

富士山の持つ意味

今回の文章の前半では富士山が、いかに高く大きな山であるかを述べています。

さらに、後半では富士が神仏の集まり遊ぶ霊山であることを述べているのです。

最古の物語と言われる『竹取物語』を読めば、この山が日本人にとってどのような意味を持っていたかが、よく理解できるはずです。

例えば、かぐや姫が天に帰る日、帝の使者が山頂で帝に残された手紙と不死の薬を焼く場面があります。

富士は「不二」に繋がり、さらに「不死」にまで意味が続いているのです。

それほどの山を平安時代の文人達は見ていたのか。

さらに霊山に対する畏怖の感情を、漢詩文で綴ったということに対する意味もあるのではないでしょうか。

この時代、漢字は男の文字であり、「真名」(まな)と呼ばれていました。

「名」は文字のことです。

それに対して「仮名」があくまでも「仮」の文字であったことはよく知られています。

文章が非常にわかりやすく、しかも具象的なので、鮮明な印象を受けます。

本文

富士山は、駿河の国に在り。

峯削り成せるが如く、直(ただ)に聳えて天に属(つづ)く。

其の高さ測るべからず。史籍の記せる所を歴(あまね)く覧(み)るに、未だ此の山より高きは有らざるなり。

其の聳ゆる峯欝(さかり)に起こり、見るに天際に在りて、海中を臨み瞰(み)る。

其の靈基(れいき)の盤連(ばんれん)する所を観(み)るに、数千里の間に亙(わた)る。

行旅(こうりよ)の人、数日を経歴して、乃(すなわ)ち其の下(ふもと)を過ぐ。

之(ここ)を去りて顧(かえり)み望めば、猶(なほ)し山の下(ふもと)に在り。

蓋(けだ)し神仙の遊萃(いうすい)する所ならむ。

承和年中に、山の峯より落ち来たる珠玉あり。

珠に小さき孔有りきと。

蓋し是(こ)れ仙簾(せんれん)の貫ける珠ならむ。

又貞觀十七年十一月五日、吏民(りみん)旧(ふる)きに仍(よ)りて祭(まつり)を致す。

日午(ひる)に加へて天甚(はなは)だ美(よ)く晴る。

仰ぎて山の峯を観(み)るに、白衣の美女二人有り、山の嶺(いただき)の上に双(なら)び舞ふ。

嶺(いただき)を去ること一尺余(ひとさかあまり)。

土人(くにひと)共に見きと、古老(ころう)伝へて云ふ。

現代語訳

富士山は駿河の国にあリます。

峯は刃物で削ったように真っ直ぐに聳(そび)え、天に属(つづ)いています。

その高さは計り知れません。
  
文献の記録を残らず見わたしても、この山より高い山はないのです。

その聳える峯は勢いよく高く盛り上がり、大空の彼方に姿を現し、中空から海中を見下ろしています。

霊妙な富士山の麓が横たわる所は数千里の長い距離にわたります。

旅行く人は幾日もかけてこの山の麓を行き過ぎ、振り返って望み見ると、それでもやはりまだ山の麓にいるのでした。

承和の時代(834~848)の間に富士の峰から、美しい石が落ちてきました。

それには小さな穴が開いていたといいます。

また、貞觀(875)11月5日、役人と人民が古い仕来り(しきたり)にしたがって祀りごとを行いました。

その日、昼時になると空は非常に美しく晴れたのです。

顔を上に向けて山の一番高い所を見てみると、白い着物を着た2人の美女が、山の頂上より少し上のところに浮かんで並んで舞っていました。

古老が土地の人も一緒に見たと語っています。

畏怖の感情

不思議な本です。

『富士山記』には富士山の様子などがこまかく記載されいます。

しかしそれ以外にさまざまな出来事も記されているのです。

それがこの山の神秘を感じさせますね。

富士には仙人が集い、遊んでいたと考えられています。

彼らの着ているものにつけられいた珠玉の宝石が、山の峰から落ちてきたという言い伝えもその1つです。

また、貞觀17年に古いしきたりにしたがい、富士の祭祀を執り行ったことがありました。

その日、真昼時になると美しく晴れわたり、富士の峰を眺めると、山頂に白衣の美女が2人いて、山の上で並んで舞いを舞っているのが見えたというのです。

その2人は山頂から、少し浮き上がっていたのを、土地の人々がみています。

たしかに見たという。古老はこうしたことを伝え語っている。

著者本人が、実際に山にのぼったとは思えませんが、土地の人々の伝聞がかなり詳しく伝えられていたことは、十分に想像できます。 

山頂の風景を自分の目で見た人もいたはずです。

そういう意味で、富士山は今も昔も、日本人にとっては大きな意味を持つ存在だということが言えるのではないでしょうか。

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日本画家たちが好んで描いてきた背景にも、この山に対する畏怖の感情が重なっているような気がします。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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