【文学の意味・小野正嗣】危機的な社会に必要なものは自分に対する問いだ

文学の持つ意味

みなさん、こんにちは

元都立高校国語科教師、すい喬です。

「文学の未来」と題する評論を以前、このサイトで扱ったことがあります。

筆者は小説家で比較文学者、小野正嗣氏です。

高校の現代文の教科書に所収されているものです。

じっくり読んでいけば、理解するのはそれほど難しくはありません。

しかしその内容をどこまで実感できるのかということになると、少し別の問題になります。

多くの文学に関わる人が考え続けてきた本質的な主題だけに、難問ですね。

時代の変化があまりにも急速です。

どこに問題の核心があるのか見えなくなってきました。

大国の思惑が複雑な政治や経済と紐づいて、さまざまな現象が起こっています。

ロシアのウクライナ侵攻などとからんだ、環境の変化も見逃せません。

二酸化炭素の排出量が増大する一方なのです。

エネルギーに対する不安から、反グローバリズムに走る傾向もあちこちで見受けられます。

原発への不安も払拭できません。

それと同時に炭素系エネルギーに頼ってしまう流れも容易には消えません。

このように複雑な時代に、文学はどのような役割を担えるのでしょうか。

この評論が書かれた10年以上前は、そこまでの視点がありませんでした。

状況は日々複雑になる一方です。

それでも執筆された当時は、かなりの緊張感を持ってまとめられたに違いないのです。

原点に戻って文学の未来を考えてみようとしたのが、この評論です。

書かれたのはかなり以前ですが、内容は古びていません。

むしろ今こそ、文学の存在の意味を深掘りしなくてはなりません。

これほど複雑な時代に、小説を読んで、それが何の役に立つのかという言い方も成り立ちます。

ただの暇つぶしではないのかという考え方もあるでしょう。

しかしそれほど、簡単に論じられるものなのかどうか。

実際にどこまで実効性があるのかという疑問は当然あります。

そのことがこの評論の冒頭にも出てきます。

その部分を少しここに再録します。

何がこのテーマの課題なのか、ここから読み取ってください。

場合によっては小論文の設問にすることも可能です。

本文

文学を専門的に研究することを目指す人は、一度ならず不思議な気持ちになったことがあるはずだ。

例えば、シェークスピアやルソーやゲーテ、プルーストやカフカなど、我々が名前を聞いたことがあるような作家について、これまで膨大な量の研究が行われてきた。

その巨大な知の蓄積に、自分ごときがさらに何を付け加えることができるのか。

偉大な作品を理解しようと格闘してきた先人たちの言葉、その労苦の結晶を前に、自分ごときに何を新しく語ることができるのだろうか。

どうすれば自分だけの新しい問題を見つけることができるのだろうか。

自分が思いつくような問題、そして切り口やアプローチはすでに誰かの手によってなされているのではないか。

にもかかわらず、新しい問題も新しい切り口も見つかるのである。

対象は変わらないかもしれないが、それを読む我々が、つまり読者が変化しているからである。

そして我々の一人一人が、誰一人として同じではないからである。

我々はつね日頃から他者の言葉に、つまりは周囲の環境に影響されながら、自分の言葉を見つけ、自分にとっての問題を形作っていく。

かりにテクストが変わらなくても、時代は変化していく。

それぞれの時代、そしてそれぞれの社会には固有の問題の配置があって、そこに生きる我々のものの見方や関心を方向づけている。

テクストに向ける我々のまなざしも、我々の時代と社会に固有の問題に影響されている。

そして目の前にあるテクストは確かに百年前に書かれたものかもしれないが、いまここにいる我々は、それを百年前と同じようなやり方で見ること、読むことはできないとも言える。(中略)

作品のテクストそのものは変化しないのに、読むたびに発見があるのはなぜなのか。

それは我々が変化しているからである。(中略)

つまり読書するたびに我々が発見するのは、ほかでもない我々自身なのである。

テクストは変化していない

今の時代に小説を書くということの意味を考えるのは大変なことです。

よくこの文章を書こうとしたというのが、率直な感想ですね。

おそらく筆者は、なぜ自分は文学に関わっているのかを日々考えていたのでしょう。

なんとか理由を探し出そうししたに違いありません。

しかし話はそう簡単ではありませんでした。

自分が考えている程度のことは誰もが考えているに違いない。

だから無駄なのだと思い切ってしまえば、そこで終わったのです。

ところが、読むたびに新しいという感覚は、新鮮なものでした。

cherylholt / Pixabay

とすれば、何かそこに秘密があるはずだ。

文学に惹かれ続ける自分に嘘はない。

彼は、どんどん奥深くへ足を延ばしたのです

その結果、見えたものは何だったのか。

それがテキストは変化していないという事実です。

では何が変わったのか。

答えはただ1つです。

読み手である自分自身が変わったのです。

自分に対して持っている問いに関わる何かが、作品の中にあるというのが答えなのです。

読者に訴えるもの

自分自身が意識していなかった問いに対して、何らの化学反応を起こした瞬間、そこに新たな認識が生まれ、感動が芽生えるワケです。

作品がかわったのではありません。

作品と読者である自分との関係が変化したのです。

つまり読むことは自分の中にある他者を発見することだと筆者が言っていることは、そういうことです。

真剣に読むことの大切さが理解できるでしょうか。

他者としてのテクストを読んでいるうちに、それが自分の中に取り込まれ、新しい意味を生成します。

そのことによって世界の見方が大きく変わります。

インプットの大切さはまさにここにあるのです。

同時にここで感じたことをアウトプットすることの意味もあります。

自分が気づいていなかったことを明らかにしようとする行為は、他者との相互理解を深めるのです。

難しくいえば、「通奏低音」の存在に気づくということです。

同じ響きを持った音に感じるある種の懐かしさとでもいえばいいのかもしれません。

自分が全く知らなかった広々とした世界へ連れ出してくれるもの。

それが文学なのではないでしょうか。

すぐれた作品は、何度読んでも飽きないものです。

そこに命の泉が湧いているからです。

足を浸してみるまでは、その心地よさを味わうことはできません。

危機的な時代です。

地球規模の大きな変動が間近に迫っている予感もします。

政治や経済を学ぶことも意味があります。

しかしそれ以上に心の闇を赤裸々に描いていく、文学の存在も忘れてはなりません。

筆者である小野正嗣氏にはすぐれた創作が何篇もあります。

土地とそこに生きる人間に光をあてた小説を読んでみてください。

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この機会に触れてみてはいかがでしょうか。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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