テルミヌスとは
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は高校1年生の教科書に所収されている評論を取り上げます。
タイトルは『テルミヌスの変身』です。
筆者は港千尋氏。
映像やメディアに関わる仕事をしている写真家です。
ところでタイトルのテルミヌスとは何でしょうか。
言葉の響きから類推できる通り、古代ローマの神の名前です。
簡単にいえば、境界の神です。
農地の境に立てられた標石や標柱を神格化したものです。
テルミニという駅がローマにあるのを御存知ですか。
ローマの終着地点の駅の名前なのです。
英語でいえば、「ターミナル」とでもいえばいいのでしょうか。
これらの名前の語源をたどっていくと、「テルミヌス」に辿り着くというワケです。
それがなぜ変身したのか。
何が理由で、どのように形を変えたというのでしょうか。
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少しここで考えてみましょう。
ローマ時代と現在で、境界という言葉の意味の違いは何でしょうか。
これが最も素朴な疑問です。
かつてのローマ帝国には、厳然と内部と外部との間に境がありました。
彼らは想像もできない範囲を領土化していったのです。
そしてローマの内側に入った部分には道をつくり、水道をひきました。
恐るべき熱意と技術で治水をおこなったのです。
アッピア街道に代表されるローマへの道を辿れば、そのエネルギーのものすごさがよくわかります。
人の往来ができるということは、常に軍事にも転用できました。
それがローマの内と外の違いです。
現代の境界はどこに
では現代の境界はどこにあるのか。
これはかなり難しい問題です。
筆者は都市空間の内部にあると主張しています。
具体的には何のことなのでしょうか。
現代では「端末」あるいは「端末」をもつ人間自身が未知なる情報との境界になっているというのです。
かつての境界は固定されたものでした。
しかし現代の境界は常に流動しています。
その変化を私たちは正確に捉えきれないのです。
空間移動の時間が短縮され、さまざまな土地の情報が簡単に入手できるようになりました。
それには多くの通信技術が関与しています。
移動体通信と呼ばれているものです。
境界が時々刻々と変化しています。
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テルミヌスには、神の縄張りという意識がついて回ります。
年に一度、この境界を確認し、その契約の証しとして獣を犠牲にしました。
この境界が神聖であり不可侵であるという意味を持っていたのです。
それだけに獣の血を要求しました。
もともと境界は可視的なものではありません。
それを知るためには、神の力が必要だったのです。
テルミヌスは、境界石の上の胸像として目の前に出現することが多いようです。
人々はそれをみて、結界という概念を身に沁みこませたのです。
そこから向こう側は異世界でした。
入ってはならない場所だったのです。
教科書の文章を1部だけ掲載します。
少し読んでみてください。
説明の内容がある程度理解できると思います。
本文
かつての住空間には、境界があった。
ローマ帝国の場合は、教会神テルミヌスが、ボーダーを守っていた。
領土を確定し、それを外部に知らしめるために、それぞれの文化は独自の指標を作ってきた。(中略)
今日、わたしたちはテルミヌスということばを、道の尽きるところとして使っている。
たとえば電車やバスのターミナルである。
ひとつのラインの終わる点、つまり「終点」としてのターミナルに、もはや今日の旅人は、神を見ることはないかもしれない。
それでもこの「終点」は、かつて境界神が守らなければならなかった。(中略)
都市のターミナルに他の地区とは違った、華やぎと危険な雰囲気が同居しているのは、そこが「異なるもの」との接点だからに他ならない。
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異国からの人やモノが到着するところ、「外部」が日常の中に貫入してくるところである。
ローマにあっては、異なる言葉を話す「野蛮」人が住む空間との接点だろう。
都市の内部で使われている言葉とは、異なる言葉を使う人々、異なるコードを持つ人々が降り立つところだから、それ相応の態度を示さなければならない場所なのだ。
内部と外部
現代の境界とはなんのことなのでしょうか。
それはズバリ、端末あるいは末端になってしまった小さな点だと筆者は言います。
もはやそこに道はありません。
全ての人間1人1人が端末を持ち、その境界の接点に立たざるを得なくなりました。
わかりやすくいえば、自分が境界なのです。
つまり外部と内部を同時に持つ運命に至ってしまいました。
いいか悪いかの問題ではありません。
そこまでついに来てしまったのです。
筆者の言葉に従えば、「いつでもどこにいてもそこが都市であり、そこが住む場所であり、そこが終点」なのです。
では、端末が終点そのものであるという時代をどう生きていけばいいのか。
これは難しい問題です。
ライフスタイルの変化を当然のように受け入れなければなりません。
地域、時間の壁を一瞬にして超えてしまうのです。
そこには情報そのものの信憑性の問題もあります。
検証するだけの時間の猶予もないのです。
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私たちは次々と的確な判断を下さなければなりません。
さらに情報が流出する被害をつねに予測して行動しなければなりません。
筆者は最後に次のように語っています。
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現在の技術革新がもたらす変化は、はっきりとは目に見えない。
なぜなら痕跡を残さないからだ。
私たちが住もうとしているのは鑿の跡の残らない、触ることも感じることもできない壁でできた空間である。
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この言葉には一種の諦めがあります。
その諦念をテルミヌスの神はどのようにみてとろうするのでしょうか。
もはや見守ろうとする考えを放棄したともとれます。
いずれにして終点になってしまった個人はさらに細分化され、果てしのない空間を彷徨わなければならないのです。
その覚悟を自分自身で引き受けて生きていくしかないのかもしれません。
生きにくい時代の到来です。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。