【小論文・ボランティア】利他のこころが根付かない理由はこの3つ

学び

実際の入試問題

みなさん、こんにちは。

小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はボランティアの問題を考えます。

これは2013年、新潟大学法学部で出題されたものです。

A村は高齢化が進んだ山間の豪雪地帯です。

毎年、屋根の雪下ろしが追いつかず家屋の倒壊が続いています。

そこでA村の近くにあるB大学では除雪のボランティア活動を設定し事実上、義務付けました。

つまり卒業単位として評価に組み入れたのです。

このことの是非を1000字で論じなさいというものでした。

典型的なYesNoの問題ですね。

Barescar90 / Pixabay

解答は当然2つのパターンに分かれます。

どちらかの立場をとらなくてはなりません。

さらにその理由をきちんと論理的に説明する必要があります。

1000字は大変です。

そもそもボランティアとは何なのでしょう。

今まで正確に定義づけることはあまりしてこなかったのではないでしょうか。

ボランティアとは個人が自発的に決意、選択し、人間の持っている潜在的能力や日常生活の質を高めることです。

人間相互の連帯感を高める活動をするというのが基本的なコンセプトです。

キーワードは「自発性」「潜在的能力」「連帯感」「無償性」などでしょうか。

ボランティアに関連する問題は災害のあった翌年に多く出題される傾向があります。

ここ数年、日本列島は地震や風水害に見舞われ続けています。

その意味で2021年度もこの問題が出る可能性に満ちています。

元々、ボランティアとは「志願兵」「志願」を意味しました。

権力が強引に「徴集」する兵とは全く異質のものです。

ここが最大の基本的な考え方です。

覚えておいてください。

連帯の意味

タダ働きで報酬をもらわないというのだけがボランティアというワケではありません。

非政府組織NGOも非営利組織NPOもボランティアの一種なのです。

1998年に特定非営利活動促進法が生まれ、NPOは法人格を得られるようになりました。

現在、各地にさまざまな組織があります。

そこできちんと給料をもらって働いている人もたくさんいるのです。

活動の内容も飢餓救済、軍縮、環境保護、福祉、人権擁護などとさまざまです。

しかしそこまで手広くなくても個人的に活動している人もたくさんいます。

災害やイベントなどの助けに個人の資格で参加するというのもボランティアの形です。

その奥行きや広がりは実に多種多様だといえるでしょう。

老人福祉や障害者の助けなども制度だけではうまくいかないことが多いのです。

その足りないところを補うという方向性もあります。

ボランティアという表現で単純にまとめきれないほど、その裾野は広いのです。

ある意味、小回りのきく草の根の運動に近いのかもしれません。

買い物、入浴の手伝い、掃除、傾聴、運転など、内容を具体的にみていくと人間の日常活動全般にまたがっているのがよくわかります。

ボランティアの基本は連帯の心でしょう。

TeroVesalainen / Pixabay

困っている人のために少しでも何かをしてあげたいとする善意の心です。

宗教でいうところの「喜捨」に近いものかもしれません。

少しでもできることを他者のためにする。

「利他」の考え方です。

他者のためにした行為がいつか巡りめぐって自分に戻ってくるかもしれません。

あるいはその時のありがとうの一言が自分の生きている証明になるということなのてす。

賛成か反対か

問題に戻りましょう。

どちらの立場にあなたなら立ちますか。

最初に反対の立場から考えてみましょう。

1番ネックになるのは「自発性」というキーワードです。

ボランティア活動そのものをすることはイヤではないとしても、それを単位として認定するということになれば、当然義務化してしまいます。

単位認定を目的とした行為が、どこまでボランティアと呼べるのでしょうか。

その授業をとった学生だけに作業をさせるのではなく、教員や他の学生も含めて、広く募るべきだという考えがあってもおかしくはありません。

おそらくこのあたりに反対論が集中するはずです。

さらにいえば、豪雪地帯の家を学生用下宿として提供するくらいの相互的な環境があったとしたら。

同じ地域に住んでいるもの同士として、心が触れ合っていれば、単位認定などいう方法をとらなくても自然に雪かきに参加することになるのではありませんか。

このような論理も当然出てくるはずです。

一方で賛成論はどうでしょう。

雪かきという作業はある意味人海戦術を必要とします。

事故などが起こる可能性がないわけではありません。

しかし自分たちが住む地域の高齢者を援護するという作業の持つ意味は大変に深いものがあります。

それを卒業に必要な単位の中に組み込むくらいのフレキシビリティがあってもいいのではないでしょうか。

制度をうまく運営するノウハウの1つとして十分な可能性に満ちていると思われます。

この論理はどうでしょうか。

どちらに説得力がありますか。

この問題の難しさは、「賛同できる人はやればいいし、そうでない人は無理にやらなくていい」というようなレベルでは書けないということです。

必ず賛成か反対かのプラカードを高く掲げて、その理由をきちんと示さなくてはなりません。

論理性を十分に発揮しなければならないのです。

いいかげんな発想で書き始めると、途中でどうも違うといった方向転換ができなくなります。

必ず、どちらかの意見を貫くという姿勢をとらなくてはいけません。

書いてみると、意外に難しいことがわかると思います。

ボランティアが根付かない理由

いい機会です。

日本人とボランティアという論点で少し考えておいてください。

なぜ日本人にはあまり馴染みがないのか。

最近ではよく災害の後にボランティア活動をしている人の様子がニュースになりますね。

数年前には山の中に入ってしまった子供の人命を救助したという報道もありました。

しかし一般論的に見てみると、なかなか活動として地に足がついていません。

幾つかの理由があります。

①日本人は経済中心の考え方から抜け出せない。

②宗教的な慈善の精神が比較的に弱い。

③市民意識が成熟しきっていない。

日本の場合はまず行政に頼るという姿勢が強いのです。

「お上」がなんとかしてくれる。

それにすがればいいとする考えが主流です。

しかしもうその時期を過ぎなければならないでしょう。

自分たちの生活をごく自然に守るために、自分のできる範囲で参加していく。

困っている人の立場にたって、頼まれたことを真面目に遂行する意識が必要です。

そうした態度が身につかないまま、ボランティア活動をされてはかえって迷惑になるシーンも増えるのです。

学校などでも奉仕の時間を設けて、教育をしています。

しかし本来は社会が自分たちのルールを子供にしつけていくという態度がなにより大切なのでしょう。

この機会にもう1度、「自発性」「無償性」という言葉の意味を考えておいてください。

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最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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