【松尾芭蕉・奥の細道】軽みの世界をあくまでも追求した信念の俳人

声に出して読む文学

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は俳聖、松尾芭蕉を取り上げます。

古典の授業をしていると、いつも1番最後になるのが『奥の細道』です。

新年度、説話集から始め平安時代の小説や随筆を読み、『平家物語』の和漢混交文、和歌などを取り上げます。

漢文は故事成語から論語などを学び、律詩や絶句もやります。

そしてなんとなくくたびれてきた頃、松尾芭蕉の文章に辿り着きます。

すると表現が実にきれいで、声に出して読んでみると気持ちがいいのです。

芭蕉という人は漢詩についての造詣が深かったのでしょうね。

言葉の韻律が実にみごとです。

pixel2013 / Pixabay

それがまた心地いい。

生徒と一緒に読みながら、もうこれで十分だなと思うことが何度もありました。

無理に現代語訳などする必要はないのです。

日本人なら、身体の中に入っている血が騒ぐのです。

そして、芭蕉と同じ風景を見ているような気さえしてきます。

実際の旅を終えてから、上梓するまでには随分と長い歳月を要しました。

推敲のあとがあちこちにみられます。

さらに俳句がまた絶妙です。

わずか17文字の中に、よくこれだけの感情と風景を入れこんだものだと感心してしまいます。

『奥の細道』は読む本ではないのかもしれません。

むしろ声に出して身体を震わせる紀行文です。

その方法が1番あっています。

どこを読んでも気持ちいいというのが実感ですね。

旅立ち

必ず勉強する最初のところを声に出して読んでみてください。

それだけでとてもいい気分です。

言葉の美しさに酔ってしまいます。

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月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老ひを迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとす。

古人も多く旅に死せるあり。

予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、

去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の

関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につか

ず、もも引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸据うるより、松島の月まづ心に

かかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞ雛の家

表八句を庵の柱に懸置く。

弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明けにて光をさまれるものから、富士

の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。

むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。

千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の

涙をそそぐ。

行く春や鳥なき魚の目は涙
 
これを矢立ての初めとして、行く道なほ進まず。

人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るなるべし。

現代語訳

時は永遠の旅人であり、次々に移ってゆく年もまた旅人である。

舟の上で一生を送る船頭や、馬のくつわを取って老年を迎える馬子などは、毎日が旅であ

って、旅そのものをすみかとしているようなものである。

昔の人も旅に生涯を終えた者が多い。

自分も、いつの年からか、ちぎれ雲が風に誘われるように、漂泊の思いがやまず、海辺を

さすらって、去年の秋、川のほとりのあばら家に戻り雲の古巣を払ってしばらくしている

うちに、やがてその年も暮れ、春になって霞のかかった空を眺めるにつけ、白河の関を越

えたいと、そぞろ神が身に取りついたように心を狂わせ、道祖神が招いているようで取る

もの手につかず、股引の破れを縫い、笠の緒つけかえて、三里に灸据えているうちから、

松島の月が何よりも気にかかり、住んでいた家は人に譲り、杉風の別荘に移るに際し、粗

末な草庵も、人が住み替わる時がきたのだなぁ。

私の出た後は華やかな雛人形を飾る家となるのだろう。

この句を発句とした連句の表八句を庵の柱に掛けておいた。

陰暦3年27日、夜明けの空はおぼろに霞んで、月は有明けの月で光は薄らいでいるけれど

富士の峰がかすかに見えて、上野・谷中の桜の梢を、またいつ見ることができるだろう

かと心細い。

親しい人々は全て前の晩から集まって、舟に乗って送ってくれる。

千住という所で舟から上がると、前途遥かな旅に出るのだという思いで胸がいっぱいにな

り、幻のようにはかない現世とは思っても、別れの涙を流すのであった。

春も過ぎ去ろうとしている。

それを惜しんで、鳥は悲しげに鳴き、魚の目は涙で潤んでいるようだ。

これを旅先で詠む最初の句として歩き始めたが、なかなか道がはかどらない。

見送りの人々は道に立ち並んで、後ろ姿の見えている間はと、見送ってくれるのだろう

深川芭蕉庵

芭蕉という植物をご存知ですか。

門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから、住まいが芭蕉庵と呼ばれていたのです。

彼は芭蕉庵を拠点に新しい俳諧活動を展開しました。

その場所には現在「江東区芭蕉記念館」が建っています。

まさに隅田川の川の縁です。

1度訪れてみてください。

展示室には自筆の書なども展示されています。

『奥の細道』に関する資料なども揃っています。

古典の授業で習った昔の人が本当にいたのだという当たり前のことを実感させてくれるのです。

俳句はかつて滑稽俳諧とか点取り俳諧などと呼ばれていました。

一種のゲーム感覚でしかない文芸でした。

それを芸術にまで高めた功績は大きいですね。

彼はあくまでも「俗」という概念にこだわりました。

しかし同時にそれだけでなく、「軽み」の境地も目指したのです。

難しい言葉ですが「不易流行」ということもよく口にしました。

動かないものと同時に動くものへも限りなく意識を研ぎすます。

作意があってはいけないのです。

どこまでも自然であるものの、しかし動じないワケではない。

それこそが風雅の境地だったのでしょう。

『奥の細道』の旅は歌枕を追いかける旅でもありました。

白河の関などでは旅心が定まったと記しています。

弟子の河合曾良もよく師につかえました。

元禄2年3月27日は今の暦だと1689年5月16日にあたります。

旅立ちは本当に春の暖かな日だったのでしょう。

東北、北陸を巡り岐阜の大垣までの旅を今でも追体験しようとする人がいます。

全てを捨てて、文学の真実を得ようとした姿には頭が下がります。

2400キロの旅を彼は歩き続けました。

その事実だけでも想像を絶します。

東北のあちこちには芭蕉の碑がたくさんあります。

このブログでもいくつかご紹介する予定にしています。

特に山寺立石寺や月山などには是非、訪れて欲しいと思います。

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亡くなった作家、森敦は松尾芭蕉の存在を大変尊敬していました。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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