六代目 中村歌右衛門
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
ぼくには道楽がいろいろとあります。
その中でもこれはということになれば、やはり落語ですかね。
ただ聞くだけの月日が長かったです。
自分で噺をするようになってからも、かなりの年月がたちました。
よく落語をやるんなら、歌舞伎を見なくちゃダメだと言われます。
確かに落語の演目の中には歌舞伎を取り入れたものがいくつもあります。
「淀五郎」「中村仲蔵」などはその代表です。
あるいは「蛙茶番」のような愉快な噺もあります。
表立っていなくても、所作を取り入れたものや、セリフをそのまま使った噺もあります。
江戸っ子の心意気を示すのに、伊達な助六がでてきても不思議はないのです。
江戸三座と呼ばれた中村座、市村座、森田座には1日に千両のお金が落ちたと言われています。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2022/08/kv-1024x521.jpg)
それくらい、江戸の住人は歌舞伎を愛したのです。
なかでも「忠臣蔵」を扱った噺が多いのは、この芝居が彼らの琴線を震わせたからに違いありません。
ぼくも元々、歌舞伎は好きでした。
勤めていた頃から一幕ものに随分通いました。
御存知ですか。
本当に好きな一幕だけを鑑賞するという方法です。
4階まで階段を上っていくと、はるか下の方に舞台が見えました。
ここには役者の屋号を叫ぶ常連の好事家たちがいたのです。
絶妙のタイミングで声をかけます。
俗に大向こうなどと呼ばれていました。
彼らは木戸御免という特権を持った歌舞伎の通人ばかりでした。
いい勉強をさせてもらったと思っています。
真の歌舞伎役者
今までにいろいろな役者を見てきました。
やはり出色なのは女形なら六代目中村歌右衛門ですね。
人間国宝と呼べるのはこの人だけだろうという風格の持ち主でした。
女形の最高峰だったと思います。
歌舞伎と舞踊以外の演劇活動は一切行いませんでした。
映画やテレビドラマに出演することもしなかったのです。
本当の舞台人というか、歌舞伎役者でしたね。
本当なら兄の中村福助が成駒屋を継ぐはずでした。
しかし1933年に早世してしまったのです。
そこから彼の人生は大きく転回しました。
1940年に父親が他界し、福助は棄てておかれてしまったのです。
歌舞伎の世界はあまりにも狭いです。
六代目尾上菊五郎の絶頂期と重なり、彼の立場は微妙なものでした。
そこから大人の社会をたくさん覗き見たんでしょう。
芸の世界は、一般の社会とは全く違います。
なにをやっても評価されない日々が続いたのです。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2022/08/450-20141213083826120021.png)
とにかく忍の一字でした。
1962年、日本芸術院賞を受賞し、1963年には史上最年少の46歳で日本芸術院会員となります。
それからの活躍は誰もが知っている通りです。
『本朝廿四孝十種香』の八重垣姫や『籠釣瓶花街酔醒』の八橋などの姿は今、写真でみても見事ですね。
彼は亡くなる以前から後進の指導に専念し、雀右衛門 、玉三郎、福助らに稽古をつけました
2001年に84歳で死去したのです。
巨星堕つという表現がまさにピッタリでした。
大看板
歌舞伎の世界はまさに大きな看板を失いました。
これでしばらく凛とした、そこにいるだけで押さえのきく芸風の役者は当分出てこないかもしれないと思いました。
にらみのきく、ある意味で怖い役者の存在がなくなったのです。
現在も新しい名代が次々と誕生していますが、これには興行会社、松竹の思惑が深く関わっています。
実際、襲名披露公演には多くの観客がつめかけます。
しかしそれだけの質を保ち続けているのかといえば、そこにはやや疑問も残ります。
もちろん、多くの見巧者に支えられ、これからも歌舞伎は残っていくでしょう。
ところが義理、人情の日本人的情念がどこまでが時代に受け入れられていくのか。
これは難しい問題です。
ある意味で歌舞伎の役者たちは日本の伝統演劇の後継者という立場におかれています。
演劇界の後ろ盾もあり、つねに日の当たる立場にいるわけです。
それだけに、楽をしようとすればある程度は可能です。
実際に台詞も覚えないまま、舞台にたつ大看板の話をよく耳にします。
プロンプトなしの芝居は不可能というわけです。
観客の質も当然かわります。
このままではじり貧だというわけで、高校生向けの歌舞伎教室など、いくつもの試みがなされています。
ぼくも仕事柄、何度も国立劇場へ行きました。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2022/05/Jisin_1887385_addf_1.jpg)
しかし「家」というものに裏打ちされた日本独自の特殊な芸術であるだけに、その延命の難しさも並々のものではないだろうと推察されます。
歌舞伎の持つ古い体質を改めるべきだという話題はつねに耳にします。
どの家に生まれたかによって、それ以降の道が決まってしまいます。
誰の一族なのかということが、絶対の条件なのです。
玉三郎のように芸養子になるという道がないわけではありません。
しかしそれはそれで厳しい道のりです。
「中村仲蔵」という落語を聞いてみれば、そのあたりの事情がよくわかります。
女形の魅力
最近は猿之助のような新しい試みもたくさんあります。
しかし、団十郎と菊五郎の門は堅く閉ざされているのです。
主流に対して、革新が生き残る道は険しいものです。
ところで歌右衛門は座っているだけで、話しているだけで女形そのものでした。
「ねえ、あなた」と言って、手を前に出し、強く目を剥いた時の仕草にはなんともいえない色気がありました。
あんな女性にはそう簡単に出会えるものではありません。
明らかに生身の女性以上のものでした。
まさに玉三郎が憧れた所以です。
舞台でいえば、『伽羅先代萩』における乳女政岡、あるいは『隅田川』の中での斑女の前がもっとも印象に残っています。
『伽羅先代萩』では首実検、まま炊きの場。
また『隅田川』ではとうとう関東までやってきた女の悲しみとそれを受けてたつ先代、勘三郎の船頭との呼吸が絶品でした。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2022/08/100325wa_ob.jpg)
あの時の光景は、いまでも目の奥に焼き付いています。
ここまで人の心情というものを、歌舞伎はあらわせるのだということを痛感しました。
また『壇ノ浦兜軍記』での遊女、阿古屋役ではいくつもの楽器演奏をするなど大変話題を呼びました。
歌右衛門は琴、三味線はもとより胡弓までひきこなしました。
遊女の時も、奥女中の時も、あるいは狂女の時も、本当にその役になりきり、けっして品格を失わなかったのです。
大看板を失って、これから歌舞伎の世界はどうなっていくのでしょうか。
女形だけでその世界を閉じた役者の魂の行き先はいったいどこなのでしょう。
実は随分前に中村福助の七代目中村歌右衛門襲名が決まっていました。
しかし2013年11月の公演中、病に倒れてしまったのです。
5年ぶりの2018年、舞台に戻ってから既に4年が過ぎています。
本格的な復帰を遂げ、次の歌右衛門として、確かな地歩を築いてほしいものです。
役者は1代だけのものです。
しかし家という目にはみえない伝統の上に残された芸を、次に繋いでいかなければいけません。
厳しい日々の連続なのです。
今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。