【神話の世紀】日常から消えてなくなりつつあるもの【一人称の死】

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太陽を拝む

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は日本人の宗教性について考えてみます。

河合隼雄の『日本人という病』を読みながら、いろいろなことを考えました。

この本では、今の日本人がどういう考え方を持つようになったのかというところに、焦点があてられています。

特に自然科学の知が世界を席巻して以来、ぼくたちの日常から宗教性や神話が急速に衰えたという点を強調しているのです。

神話が取り扱う主題はさまざまですが、一番のポイントは「死」に関わるものです。

自分が死ぬという体験は誰にとっても未知の領域です。

2人称(あなたの)、3人称(彼の)の死はあっても1人称の(自分の)死は全く認識できません。

もともと日本人は太陽を拝み、神棚をつり、仏に手をあわせるような生活をしていました。

しかし近来の生活は、そうしたものをことごとく排除する方向に向かっています。

自然科学は何度同じ実験をしても、結果が完全に同一でなければなりません。

つまり曖昧さの排除ということがその根幹なのです。

しかし人間はもともとひどく曖昧な存在です。

自分がどこから来てどこへ行くのかさえ全くわからないのです。

生命の問題はまさにその一部といえます。

今日科学の知が進み、生命現象のかなり細かなところまで、認識できるようになりました。

クローン技術などはまさにその先頭にたっています。

しかしそれでもなお、ぼくたちの生がどこへ進むのかということについて、科学だけではすまないものがたくさん残っているのです。

生命の終焉

一人称の死でなくても、肉親が亡くなった時、それが有機物である生命体の終焉であるととらえる人は少ないのではないでしょうか。

やはりその人の魂がどこかに安らぐ場所をみつけたと信じることで、人間は心を落ち着かせるのです。

最愛の恋人が目の前で事故死したとき、それはただの一般ではなく、あくまでも特殊なのです。

なぜその人が死なねばならなかったのか、またその人はどこへ行くのかをぼくたちは考え続けます。

この問題は永遠です。

すなわち人の一生は神話なしには成り立たないとも言えるのです。

誰もが年をとって死ぬというのはごく普通の科学です。

そのあとには何もないというのも科学です。

だから頑張って勉強しても仕方がないとか、仕事をあくせくする必要はないとかいう結論も可能です。

この考え方はあらゆる場面を通じて顔をのぞかせます。

極楽や地獄の絵を見たという経験を持っている人もかなり多いはずです。

しかしそれを科学的に立証することはできません。

銀河系のどこにどんな星があるのかを研究している人も、地獄の場所は知らないのです。

しかし現実に肉親をなくした人は、どこかでその人の魂が癒されていることを信じたいのです。

そこに生きることの難しさが絡んできます。

河合隼雄はこの本の中で「賭ける」ということを主張しています。

わたしは地獄や天国はあると思う、あるいはその考え方に賭けるという一種の個人的な神話の生成です。

これは既成の宗教ではありません。

全く個人的な体験だとも言えるでしょう。

現代は誰もが神話を失っています。

個人主義は自然科学と強い結びつきをもち、当然神話からは最も遠い場所にあります。

神話の知

神話の知は何度同じ実験をしても、全く同一の結果を得るということとは次元が違うのです。

自然科学の知との差をこれからも考えなければならないでしょう。

ひょっとすると、このことが一番大切な、これからの世紀を生きる人間にとっての正念場と言えるのかもしれません。

あまりにも人の死が無防備になりすぎました。

ぼくが子供だった頃、親は必ずお盆に迎え火をして、死者を呼び入れました。

玄関の前で火を焚き、そこに死者が訪れると信じたのです。

きゅうりやなすに足をさして、それを仏壇の前に置きました。

先祖がそれに乗って、家までやってくると信じたのです。

今となってみれば、これは科学ではありません。

理屈を超えた超自然です。

しかし子供の心には、その風景が見えました。

結婚して、妻の郷里を訪れた時、ていねいな盆の迎え方をするのに驚いたものです。

道端にさまざまな店が並び、そこでは盆に必要な花や、果物、灯明などを売っていました。

かつてはそれらを川に流したと聞いています。

しかし今では市の清掃車が決まった場所で、収集をしています。

環境を少しでも汚さないという風習も、科学の1つかもしれません。

墓も家から離れてはいません。

歩いていける距離にあります。

現在の都会で、そういう風景を望むことは無理でしょう。

霊園は家から遠く、一日仕事になりました。

神話はどんどん日常から離れていきます。

天変地異

そのかわりに何が訪れたのか。

間違いなく、天変地異がそれにとってかわりました。

線状降水帯の怖さは、毎日のニュースが知らせています。

九州地方から中国地方にかけては、これからも雨に襲われる可能性が高くなります。

さらに疫病の流行は、まさに現実そのものです。

多くの祭りが疫病退散を祈願して生まれたと聞きます。

現在の惨状は、科学がどれほど進歩しても、救いきれない要素を孕んでいます。

人は弱い存在です。

危機を乗り越えようと、科学の力に頼るしかありません。

それでも天変地異は人の愚かさをあざ笑うかのように、蔓延していきます。

すでに神話を失いつつある人間は、猛暑の中を右往左往するしかありません。

海水温の上昇は台風の発生を呼び、海洋生物の分布は明らかに変化しています。

かつての場所でとれた魚が、今は別の領域に移動してしまいました。

名前を聞いたこともない深海魚が、食卓にのぼる時代です。

自国の利益を守るために、それぞれの国が戦いをし続けるのかもしれません。

祈ることが金銭の収奪につながる事例さえも再び報告されています。

人々はどこへいくのか。

何を信じていくのか。

それもよく見えません。

不都合な時代になりました。

それでも人は生まれ、死んでいくのです。

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46億年の歴史を経た地球は、どこまで今の形を続けていけるのか。

わからないことが山積しています。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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