際限のない欲望を無理に作り出すことの空しさだけが地に溢れる現代

暮らし

新しいスマホ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今回は新しいスマホが欲しいけれどという話をさせてください。

毎日、あちこちの広告を見ています。

ネットでぼんやり見ていると、毎月のように新製品が発売されているのがよくわかります。

本当に次々と新しい製品が出るのであきれてしまうほどです。

スマホは大きく分ければアイフォンとアンドロイドの2系統です。

日本ではシェアが少ないですが、アンドロイドの種類はものすごいですね。

そこへいくとアイフォンは整然とマイペースで新製品が発売されています。

最初にどっちを使ったかで、その後のコースが決まるようです。

今では日常生活になくなてはならない必需品です。

先日のKDDIの回線故障がそのことを如実に示しました。

家の電話を解約した人も多いようです。

いざという時の緊急対応が、今後の焦点でしょうね。

毎日、広告を見ていると、どの機種がいいのか全くわからなくなってしまいます。

ぼくはずっとアンドロイドを使っているので、もっぱらその系統の商品ばかりを探索しています。

コモディティー化という言葉を御存知ですか。

市場参入時には高付加価値を持っていた商品の市場価値が低下することです。

ありふれた誰もが持っている商品になったということです。

かつては特別なものでした。

今ではありふれたどこにでもある誰もが持っているガジェットです。

だから特別の思い入れもない。

なければ困るから持っているのです。

どうせ持つのなら、性能の高いものがいい。

さらにいえば、長く使えて価格の安いものの方がもっといいのです。

欲しいもの

現代の人間にとって真に欲しいものを探すのも、難しいことになりました。

どの店へいっても商品はあふれかえっています。

電気屋さんの店頭にはスマホが並んでいます。

明らかにその店の店員ではない、派遣された販売員が営業にあたっています。

どれもが新しいデザインを競い、さあ買ってくれと声なき声を発しているのです。

しかし消費者にとって、本当に買う喜びがあるといえるのかどうか。

かつては新しい電機製品などを手にすると、とても嬉しかった記憶があります。

カメラやパソコンなどもそうですね。

しかし今はどうでしょう。

何かを買った瞬間に、もう一つの別のにすればよかったという後悔がすぐに生まれるのです。

これは案外厄介な感情です。

自動車、カメラ、テレビ、パソコン、携帯電話などなど、すぐに形や機能がかわります。

変わりすぎるといった方がいいでしょう。

スマホのカメラも少し前は1つか2つでした。

それがいつの間にか3つになり、さらに4つに増える。

解像度もそうです。

どんどんあがるばかりです。

大きさも重さも形も、次々と変化していきます。

さらにはメモリの量、ストレージの大きさ。

つい数か月前までは新品だったものが、すぐに過去のものになってしまいます。

買い換えろとメーカーは脅しをかけるかのような広告をたえずうってきます。

安値競争

電話会社は自分のところと契約をしてくれれば、ここまで携帯料金を安くしますと耳元で囁きます。

テレビのCMも賑やかそのものです。

いつまでも古いものをもっているとダメですよと絶叫するのです。

一方では骨董的な商品に人々はむらがり、他方ではブランド志向に走る人もいます。

しかし誰もが心の中で同じ文句を呟いているのではないてしょうか。

本当にほしいものがほしい、と。

すなわち、欲しいという欲望をぼくたちは今失いつつあるのかもしれません。

本当に欲しいものは、はるか遠いところにあって、それを毎日夢見ていた時代が懐かしい気がしてなりません。

三種の神器と呼ばれた電気製品が家にはじめてやってきた時の喜びからは、今現在、程遠い暮らしをしています。

悲しいことですが、欲しいものはひょっとすると、もうないのかもしれません。

現代の人間は、生まれた時から十分過ぎるほどのものに囲まれ、日々を過ごしています。

何が欲しいのかさえ、もうわからなくなっているのです。

壊れたら買い換えるという作業を繰り返しているだけなのかもしれません。

あるいはなくてもなんの痛痒も感じなくなっているに違いないのです。

シンプルライフを提案する人たちが多くなりました。

バーベキューも今では全部セットになって、すぐに始められるようなキャンプ場が人気です。

虫に刺され、ケガをしてまで自然の中にいたくはないのです。

現代の人はたとえ自然の中に入ったとしても、たくさんのモノを消費します。

ヒマラヤに残された残骸の写真を見たことがあります。

酸素タンクや缶詰が、何トンもうち捨てられていくのです。

全ては交換可能なモノばかりの時代になりました。

交換可能

ひょっとすると自分自身という存在も、十分に交換可能な時代になったのかもしれません。

だれでもがやれる仕事がベルトの上を流れていきます。

現実に起こる殺人事件は、本当に誰でもよかったというものもあるのです。

事件があれば、必ず動機があると考えるのはごく普通のことです。

しかし現代の殺人事件などには、動機の不明確なものがあります。

たまたまそこにいたことで殺されてしまう。

理由もない衝動的な犯罪が圧倒的に増えました。

動機がない。

ただイライラしている人の群れが、そこにはあります。

全てが交換可能になり、それがなくても別の似たようなものがいくらでもある。

その中身はそれほどに違わない。

昨日、手に入れたばかりなのに、もう新しいものに目移りがしている。

似たようなガジェットを何台も持って、それでも満足はできない。

Free-Photos / Pixabay

広告は次々と新しい商品をみせびらかします。

人間は自分の欲望がどこにあるのかを、もう認識しきれない。

ちょっと古ければ、それで終わりです。

高齢者の存在などはまさにそうですね。

既に用事のなくなった人間の群れといっても過言ではありません。

ある意味、医療費を使い、年金を過剰に消費するのです。

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もう一度、よく自分の身の周りを眺めてみなくてはなりません。

本当に欲しいものとは何であるのか。真剣に考えなくてはいけない時がきているのです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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