【漂流】見たい情報と信じたい物語の間を人は今日も彷徨い続けるのか

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漂流

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今の日本の状態を一言で表現するとしたら、「漂流」が1番ふさわしいだろうという記事に出会いました。

世界の人々はそうみているようです。

「ジャパンアズナンバーワン」などと声高に叫んでいた時代は何だったのでしょう。

100均の商品は少し前まで東南アジアで生産されていました。

しかし近年、多くのものが日本でつくられているのだそうです。

円安の影響を誰もが考えますね。

しかし実際はそうではありません。

賃金が東南アジアとほとんど変わらないのだとか。

日本の給料はこの10年、ずっと同じ水準です。

その間に、東南アジアの勢いにすっかり押されてしまいました。

日本が今まで経験してこなかったことばかりが続いています。

最近は年収300万円でいかに快適に暮らすかという話題が、ごく普通に交わされます。

少し前まではかなりセンセーショナルな話題でしたが、今では誰も驚きません。

先日放送されたNHKの番組では、職人になりたがる若者が増えているという現象をとりあげていました。

特に昔からの技術を必要とする宮大工や、複雑な技巧を要する染色などの伝統を守ろうと志願してくる青年が多いらしいのです。

生きがいをどこに求めるのか。

真剣に考える時代に入りました。

ところで現在、世界中を席捲しているのはスマートフォンです。

画面に示される情報は全て検索エンジンを通過したものです。

多くのキーワードが瞬時に判断され、アルゴリズムの網をくぐっています。

その情報は「本当」なのでしょうか。

それさえもわからないのが実情です。

信じたい物語

あなたの目の前にあらわれる現象は多くの危険性に満ちています。

しかし知らない間にそのことを忘れてしまうのです。

意識して見ようとしなければ、次の瞬間には消えてしまいます。

視界からなくなってしまうのです。

怖いことですね。

そこにあるのは何か。

それは「見たい情報」の果てにある「信じたい物語」だけです。

誰もが発信者なれるいい時代になりました。

「俺メディア」と呼ばれる多くの情報がたくさんの人によって、次々と発信されます。

それを管理しているのは誰なのか。

誰でもないといえば、一見民主的にみえます。

しかしAIが絶え間なく検索の網をかけ、そこからアルゴリズムが次の瞬間のキーワードをみつけます。

同じ場所へなだれ込む人が多ければ、やがてポピュリズムと呼ばれる危険なフェーズに達するのです。

残念なことに多くの人はそこまで考えようとはしません。

口当たりのいい表現にうまくのせられて生きていくのです。

時間に容赦はないです。

モデルがない、ビジョンがないと言われても10年は一昔の譬え通りです。

少しも待ってはくれません。

その中で、どのように生きていけばいいのか。

もちろん正解はどこにもないのです。

羅針盤のない船に乗って荒れた海を漂流するのに似ていますね。

どこかに陸地があるのか、ないのか。それさえもわかりません。

漂流とは誠に言い得て妙です。

しかしむやみに感心しているわけにはいきません。

ぎりぎりの地点に、今さしかかっています。

ロシアのウクライナ侵攻も現実です。

中国の東シナ海進出も現実です。

多様性

どこに視点をすえれば、全体像がみてとれるのか。

難問中の難問ですね。

ものごとの一面だけを見ても何もわかりません。

さまざまな価値観があるということは、一見面倒で煩わしいことです。

直截に割り切れればどれほど楽かしれません。

しかしあえて多様であることを今、求めなくてはいけない時代であると言えるでしょう。

悪の枢軸と名づけ、自分に敵対する者を武力を使ってまで、切り捨てていく方法論には問題が多すぎます。

たくさんの価値を同じように認めあえるだけの心の広さがなければ、必ず文明は滅びていきます。

SDGsの達成は無理だと言われてしまうと、途端に元気が出なくなります。

飢餓も貧困も気候変動も、考えれば考えるほど、解決の遠い話です。

それでも一神教的な世界観は怖いです。

確かに割り切れて、心地は安らぐのかもしれません。

だからといって、そこに安住するのは、やはり避けなければならないでしょう。

苦しい道のりです。

日本には幸い、たくさんの神がいます。

というより自然がかろうじて残されています。

NHKの長寿番組「新日本紀行」を見ていると心が穏やかになるのを感じますね。

自然を崇拝する潜在能力が日本人の魂の底に、残っているからかもしれません。

新しい価値観

新しい価値観はむしろ多神教の国からしか出てこないと書いたのは哲学者、梅原猛です。

日本に対する興味や関心を持つヨーロッパの知識人は多いです。

かつて電子機器と自動車だけを売り物にした日本が誇れるのは、東洋的感受性なのかもしれません。

わび、さびに代表される自然との融合を基調にした価値観です。

西部劇のように善と悪がこの世界をつくっているワケではありません。

誰もが同時に幾つもの要素を内側に持っているのです。

そこに着目しなければ、全ては善悪の二元論で押し切られてしまいます。

今必要なのは、哲学的な重層性ではないでしょうか。

インターネット全盛の時代に世界を支配しているのはGAFAを代表とするアメリカの企業です。

彼らの作り出すアルゴリズムの検索システムからこぼれる思想や考え方の中にしか、未来の可能性は開けてこないのかもしれません。

数字のマジックが全てを決めてしまうような世界観だけでは、地球はおそらく生き残れないでしょう。

人間が持つ複雑な感性の内側をしっかりと把握し、自分で見て自分で考えるという姿勢を貫いていかない限り、未来はないように感じます。

難しくいえば、自己決定に対する責任意識でしょうか。

それができないということになれば、この漂流はさらに長く、想像を絶するほどの時間が続くと考えた方がいいです。

複雑になることを怖れないことが一番、大切なのかもしれないのです。

人々が安心して暮らせる社会は、いつ来るのでしょうか。

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矛盾と諦めを抱えつつ、それでも信じること以外に道はありません。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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