箱根駅伝の本当の勝者は新春の陽光に輝く湘南の海と富士山だった!

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箱根駅伝は定番

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

新しい年になって、さて今年は何をしようかなと考えているところです。

とはいえ、やっぱり朝からテレビをつけちゃいますね。

お目当ては箱根駅伝です。

どうしてもこれを見ないとお正月がきたような気分になれません。

どうしてでしょう。

毎年のことながら、つい見ちゃう。

国民的番組だと言われれば、全くその通りだと思います。

元々、ぼくはあんまりスポーツに熱中する方ではありません。

ラクビーもサッカーも野球も、別にこれといって一家言をもっているというのでもないのです。

やっていれば見ることもありますが、よほどのことがないと、熱心にはなりません。

ましてや海外で行われる試合を寝ないで見るというようなことは全くないのです。

それでもつい駅伝はダラダラとみますね。

20校の選手たちの活躍ぶりを知りたいというのもあります。

しかしそれだけではありません。

箱根駅伝には何かがあるのです。

それを少し深掘りしてみたいと思います。

人気のヒミツ

この大会は随分と昔からやっています。

今年が96回目なんだとか。

PIRO4D / Pixabay

間に中断したこともあるのですから、その歴史の長さを感じます。

正式には東京箱根間往復大学駅伝競走と呼ばれます。

地方大会の1つなのです。

それがいつの頃からか箱根駅伝という名前にかわりました。

駅伝というのは本当に不思議な競技です。

他の国にもあるのかないのか。

日本人のメンタリティにあっているといえばそれまでですけど、随分といろいろな形で行われています。

昨今では中学生、高校生、さらには社会人、もっとすごいのは県別もあります。

1本のタスキをつないで、次の人に渡すという単純な図式がいいのでしょうか。

個人主義とは真逆のスポーツです。

球技などにもその要素はありますけど、ここまで1人1人が独立しながら、さらに全体として繋がるという競技はないような気がします。

それもあと数秒でタスキを渡せず、泣きながらゴールインする姿とか。

途中で棄権して大学の仲間全体に泣いて詫びるとか。

いかにも日本人が好きそうな競技です。

集団で結果を出さなければならない上に、1人でも失速すれば、それで終わりという厳しい側面も持っています。

考えれば考えるほど、単純で不思議なスポーツです。

さらにシード権争いというのもあり、下位の学校は翌年また予選から這い上がらなければなりません。

この図式も見ているものを実にハラハラとさせます。

最後の走者は自分の足に全てがかかっていることを強く認識しています。

それだけに見ている方としては、つい感情移入してしまうのです。

つまらないドラマよりも、よりドラマチックな展開のあるのが駅伝の醍醐味ともいえます。

それを裏で支えているのはテレビ中継です。

1987年から放送を開始したテレビ中継によって国内の学生スポーツ競技会の中でも極めて高い人気を誇っています

「箱根駅伝」は読売新聞東京本社の登録商標でもあるのです。

ビジネスとして、今や日本テレビにとっても欠かせない大きな柱になっています。

出場校は20校。

これとは別に出場校以外の競技者による関東学生連合チームが参加します。

しかしなぜか強い選手を集めた学連チームも、なかなか上位に食い込めません。

このあたりに大学の看板を背負い走るという、日本人の好きな構図があるのかもしれません。

コースの詳細

コースは国道1号線、東京都千代田区大手町・読売新聞東京本社ビル前が出発点です。

途中、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖までの往復で、往路107.5 km、復路109.6 km、計217.1 kmを走るのです

1月2日に東京から箱根への往路を。

1月3日に箱根から東京への復路を走ります。

なぜこのような競技が始まったのか。

第1回大会は、アメリカ大陸横断を実施するための代表選考会という位置付けで始まったと言われています。

大会が開かれたのは1920年2月14日。

くしくも今年が創設100年目にあたります。

昨年日曜夜の番組で有名になった五輪選手第1号、金栗四三の発案だったそうです。

しかしこれには全く別の説もあります。

ぼくはこっちの方がより真実に近いような気がします。

それはまさに駅伝という名前の由来です。

箱根駅伝は飛脚制度をもとに、手紙に見立てたタスキを、東京から東海道の宿駅があった鶴見(川崎

宿)、戸塚(戸塚宿)、平塚(平塚宿)、小田原(小田原宿)で引き継ぎ、箱根町郵便局(箱根宿/箱

根関所)まで届ける観光イベントだったという説です。

なんとなくいかにもありそうな話じゃないですか。

話題性もあるし、観光客の誘致にもなります。

事実、今でもお正月に箱根に滞在する人は、ホテルの前に出て選手の応援をしています。

ただし戦争で何度も中断されました。

1941年から2年間。

1943年に1度だけ戦時下で開催されました。

その後、再び中止。

復活したのは戦後の1947年です。

1956年から現在の1月2と3日の開催になりました。

お屠蘇気分でいい気持ちになりながら、母校の選手を応援するという図式が定着したのです。

そのためには全国への中継が必要でした。。

1987年に日本テレビが全国放送で全区間生中継を開始。

これ以降は完全に国民的なスポーツ番組になりました。

スポンサーに大きなビール会社がつき、予算的にも潤いました。

さらに高度経済成長が続き、大学進学率の高まりとともに大学側も宣伝のための大きなツールとして認識したのです。

とにかく正月8時間近くのワクをずっとゼッケンをつけた学生が走るのです。

その間に何度大学の名前が連呼されることか。

これ以上の広告塔はありません。

強い選手を集め、力のあるコーチ、監督の手に委ねました。

合宿を含め、手厚い予算を配布したのです。

駅伝にはこの他に出雲駅伝、全日本大学駅伝があります。

箱根駅伝とあわせて「大学3大駅伝」と呼ばれています。

ただし箱根駅伝はあくまでも関東学連の地方大会なので、参加資格のない大学は出られません。

予選会の厳しさ

最近では予選会の中継も行われるようになりました。

その年の本戦で10位までに入れず、シード権を失った大学などが参加して行われるものです。

予選会は陸上自衛隊立川駐屯地内の滑走路を周回し、立川市の市街地を通過して、昭和記念公園内をゴールとするハーフマラソンです。

この様子も実にドラマチックで、なんとも感動的なものです。

1月1日から予選会申込期日前日までの公認記録で規定の記録を持つ選手だけにしか出場資格がありません。

それでも参加校は増える一方のようです。

これだけ注目を集めると、その後の人生も大きくかわります。

箱根で注目され、本格的なフルマラソンの選手になる人もいれば、実業団にスカウトされる選手もいます。

アフリカからスカウトされ日本にやってきた選手もいます。

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当然、その後の人生が大きく変化するのは言うまでもありません。

箱根駅伝は年々規模も肥大化し、さまざまなドラマを生んでいます。

放送機材の投入やマンパワーなどの使い方をみても、他のスポーツ番組では当然考えられない機動力を発揮しています。

系列地方局からの応援がなければ、とてもこの規模ではやれません。

ネット関連の記事をはじめ、印刷物に至るまで、実に目配りが効いています。

その日の試合の様子を瞬時にネットに配信するスピードにも驚かされます。

しかし本当の勝者は誰かといえば、ぼくはやっぱり箱根路までの海の風景、新春の陽光、そして富士山の偉容に尽きるのではないかと思います。

geralt / Pixabay

街中の風景をいくら映されても、ちっとも心楽しくはありません。

湘南の海に輝く太陽と富士山の姿くらい、お正月にふさわしいものはないのではないでしょうか

あの宮ノ下から芦野湖畔まで坂道を走って登るなどということをよく考えたものです。

車で通るだけでも本当に大変です。

かつてぼくの教え子にも箱根に前日までエントリーした生徒がいました。

しかし当日コンディション不調で、残念なことに走れませんでした。

陸上部の長距離でエースだった選手です。

それだけの選手でもなかなか出られない。

それが箱根なのです。

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陽光に浮かんだ湘南の海に癒やされる競技。

母校のためにタスキを繋ぐ競技。

まさにこれが箱根駅伝の究極の意味なのではないでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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