ドライブスルーはニヒルな人間を増殖させる不条理な装置だという仮説

暮らし

苦手なシステム

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今回はちょっとドライブスルーの話をさせてください。

というといつも利用してるんだろうと思われるかもしれません。

実はすごく苦手なんです。

この10年間、1度もお世話になったことがありません。

だからどこにそういうお店があるのかもよく知りません。

1軒だけは街道沿いにあるのを微かに覚えてました。

マックです。

やっぱりドライブスルーといえば、このお店につきます。

車でさっと乗り付けて、マイクの前で注文し、あとはぐるっと会計の窓口へ行けば、すぐに品物を受け取れる。

1番最初に利用したのは帰省の時だったかもしれません。

今から30年くらい前です。

まだ子供が小さかった頃の話です。

車から降りていたら時間ばかりとられてしまうからでした

子供達に食べさせながら、運転を続けられるというのはすごいと思った記憶があります。

しかし何度も利用したわけではありません。

基本的に苦手ですね。

なんとなくお天道様に申し訳ない気持ちがしました。

食べるものを車の中から店員の顔を見ずに注文して、後はお金を払うだけ。

これが究極のアメリカ文化なんですかね。

プラグマティズムの進化系といえば、そうともいえるでしょう。

しかしぼくには限りない退行現象にも見えます。

なんとなくどんどん人間がダメな方向へ進んでいく時のシグナルのようにも思えたのです。

久しぶりの利用

そんなことを考えることも忘れていた今日、ケンタッキーに辿り着きました。

事情があって車から降りられなかったのです。

道端に大きくドライブスルーと書いてありました。

確かにそんな店があったような記憶はあります。

しかしいつも確認していたわけではありません。

ぼくはケンタッキーで食事をしたことがほとんどないので、どういうメニューがあるのか知りません。

同乗者がマイクに向かって、実にあっさりと注文を終えました。

ぼくの前の車の人はコード決済です。

ペイペイでしょうか。

ぼくもやってみようと思い、メルペイは使えますかと訊くと、やってないとの返事。

なるほど、そう何事も簡単にはいかないものだと思いました。

確かに楽です。

そのまんま座っていれば、注文通りに品物が目の前に届きます。

車が揺れても飲み物がこぼれないように、みごとなパッケージに入っています。

大きな袋のまま、自宅まで持って帰りました。

しかしどこか怠惰の匂いがします。

外食というのは字の通り、他の人に作ってもらう食事を外でいただくことです。

食事の支度というのはやってみればよくわかりますが、大変に手数のかかるものです。

しかし食材を調理している間に、心が料理の中に染みこんでいくのです。

そういうものです。

全てをマニュアル化し、短時間でつくりあげるファーストフードは、やはりそれだけの質しか持ち得ないものではないでしょうか。

アルバイトの人件費が全てドライブスルーというシステムの中に組み込まれていると考えると、少し悲しい気持ちになりました。

これだけ広がった

興味があったので少しだけ調べてみました。

基本はファーストフードです。

マックやロッテリア、ケンタッキーなどが最初の参入者でした。

1960年代には日本にも導入されたといわれています

その後、牛丼チェーン。

最近ではカツ丼、長崎ちゃんぽん、お寿司、ラーメンなどの業種にも広がっています。

ちゃんぽんや、ラーメンまでドライブスルーで注文するのかと思うと、ある種の感慨を持ちます。

家に持って帰るのでしょうか。

やはり車の中でそのまま食べるんでしょうね。

カウンターやテーブルに向かってゆっくりといただきたいもんです。

何を贅沢なことを言ってるんだとお叱りをうけるかもしれません。

外で働く多くの人達は、日常的に温かい室内でテーブルに向かって食事をするなどということができません。

それでも食事の時くらいは安らいだ環境でいたいと思います。

そんなことを言い出すのは昔気質の贅沢な感傷でしょうか。

きっとそうなんでしょうね。

ホールケーキの切り方を知らない子供たちがいるという本が、ベストセラーになる時代です。

急いでいるんだから仕方がないよ。

忙しい時は仕方がないでしょ。

それもよくわかります。

まさにその通りでしょう。

しかしそれならばなおのこと、忙中閑ありの精神が大切な気もします。

車に乗ったまま食事を注文し食べる。

そういう人生を続けていたら、なんとなく充実した日々とは遠いものになるような気がして仕方がありません。

これも贅沢でしょうかね。

作ってくれる人への感謝の気持ちも自然に遠ざかります。

顔が全くみえない関係の継続です。

明日も見えない。

明後日もです。

なんとなくやるせない日々の連続ですね。

人間がニヒルになる

まさか毎日そんな暮らしをしているわけじゃないよ。

そう言われれば、まさにそうですねというしかありません。

しかし同じような暮らしが続いてしまう予感もします。

自然、他者との関係が薄い生活が繰り返されるような気がしてならないのです。

だからなんだ、そんなのは他人事だろうといわれれば、全くその通りです。

しかし人との関係の中で人間は生きていかなければなりません。

大袈裟な言い方かもしれません。

それでもお許しをいただきたいです。

ぼくにはドライブスルーは人間をニヒルに変えていく装置に思われてなりませんでした。

初めはそんなことを意識していなくても、時々利用することが続くと、他者そのものが不必要になっていきます。

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厄介な人間関係を構築せずに全てアノニムで済ますことができる。

無記名の人生になるのです。

どこの誰でもない人間が、誰とも顔を合わせずに暮らす。

その繰り返しがどのような人生を作り出すのか。

なんとなく未来が見えるような気もします。

飲み物の注文を間違えたり、ポテトの量を間違えたりしながら、コミュニケーションをとっていく。

そして互いの表情から感謝の心を感じる。

そうした行動の一切を捨てて、マイク越しに注文をとり商品を渡すという売買の形態に怖れを感じます。

それがやがて怠け心と無感動に発展しないことを祈るばかりです。

ぼくはカミュの書いた『異邦人』の世界をふっと思い出しました。

突然前を歩いていた人にピストルを向け殺してしまう。

理由などはありません。

20世紀の代表作は「不条理」という言葉でくくられました。

ドライブスルーも人間を限りなくニヒルにする不条理な装置なのかもしれません。

なんだか怖くなりました。

これは考え過ぎでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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