鏑木清方
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
つい先日、国立近代美術館で開かれている鏑木清方没後50年の回顧展へ行ってきました。
美人画をぜひ、自分の目でみたいと思ったからです。
新聞やネットにもかなり広告が出ていますね。
5月1日(日)の午前9時からNHKの「日曜美術館」でも取り上げられるそうです。
「没後50年 鏑木清方(かぶらき きよかた)展」がそれです。
今回1番のお目当ては「築地明石町」と題された絵です。
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ポスターなどにも載っています。
色合いが美しいだけではありません。
ふっくらとした女性の持つやさしさが滲んでいます。
彼は1972年、93歳で亡くなりました。
明治11年、神田の生まれです。
13歳の時、浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門しました。
翌年にはもう画業に専心しています。
明治26年、師から「清方」の号を贈られました。
彼は狂言を学び、初舞台も踏んでいます。
17歳の頃からは挿絵を描き始め、やがて尾崎紅葉と出会うきっかけにもなりました。
その後、美人画や風俗画家としての活動を始めたのです。
1901年に泉鏡花と知り合ったのが、それ以後の道を決定づけました。
彼の絵には江戸から明治に至る浮世絵の美しさが色濃く残っています。
終生、庶民の風俗を描き続けたのです。
上村松園
近代日本の美人画家といったら、1番最初に思い浮かぶのは上村松園(うえむら しょうえん)です。
この人の絵画展に行ったのももう随分前のことです。
南青山の根津美術館で見ました。
彼女の美人画は、美しいだけではありません。
気品がありますね。
着物も美しい。
美人のちょっとした仕草が一瞬で捉えられています。
一言でいえば動きがあります。
日常の一コマを瞬間に切り取る。
その目の確かさが凛とした美しさに反映されています。
1875年、京都の茶屋の娘として生まれました。
その後、京都府画学校に入学。
数人の師につき、最後は竹内栖鳳に師事しました。
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彼女の絵にある造形は、やはり能や古典の世界に影響を強く受けています。
代表的な謡曲『葵上』を題材にした作品などは六条御息所の生霊をモデルにしています。
『源氏物語』の世界をきちんと読み込んでいなければ、描けない題材です。
時に女性の嫉妬や怨念をこれでもかと描写した作品です。
男性の持つ世界とは明らかに違います。
そこに彼女の魅力があるのは確かです。
松園をモデルにした宮尾登美子の小説のタイトルになった作品は有名ですね。
『序の舞』です。
仕舞を舞う絵の構図を覚えていないでしょうか。
ぜひ、調べてみてください。
明治という時代
今回、展覧会へ行ってよかったのは、三遊亭圓朝を描いた作品の実物に触れられたことです。
江戸から明治にかけて活躍した噺家です。
『牡丹灯篭』などで有名な怪談噺の名手でした。
それからもう1つ。
鏑木清方が随分以前に行ったインタビューをみられたことです。
歩き疲れて、少し休もうかなと思ったあたりのコーナーに映像が用意されていました。
彼は美人画を多く描きましたが、主流はあくまでも庶民の風俗です。
尾崎紅葉などの小説の挿絵を担当したことで、その視線は明治の東京の風俗に注がれたものと思われます。
いわゆる江戸の名残りが残った、古き良き時代の描写です。
彼は、そのインタビューの中で、自分は幸せだったと何度も呟いていました。
明治という時代はよかった。
そこに人の世のあたたかさがあった。
時間に追われて、世知辛くなることもなく、人々が、それぞれの暮らしを楽しんでいた。
けっして裕福だったわけではない。
しかしそこに人間の暮らしがあった。
他人を思いやるやさしさがあった。
何度もそう言っていました。
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彼は軍人や政治家を描いてはいません。
士農工商でいえば、江戸で暮らしていた商人や職人が中心です。
それとたくさんの子供達。
そこに生活のすべてをみました。
長い細地の巻物に江戸から明治にかけての子供の遊びや、商人の姿を生き生きと描いています。
一瞬の図柄です。
そこから飛び出してきそうな子供たちの笑顔が実に愛らしいのです。
それを引き立てているのが。やっぱり着物なのです。
町人の文化
軍人や役人、上流階級の人の間には、早くから洋服が広まりました。
しかし庶民は着物が一般的だったのです。
昼間は洋装をしている父親たちも、家では着物に着替えてくつろいでいました。
女性は、明治に入っても、相変わらず着物に日本髪が主流でした。
鏑木清方の絵の主人公たちは、皆着物を着ています。
当然、所作の形が洋装とは違います。
ちょっとものをとる時の構図などにもその変化は出るものです。
彼の絵をみていると、明治という時代は本当に江戸の文化がそのまま生きていたのだということを実感します。
ある意味、羨ましいですね。
西洋料理が食卓を彩ることはありません。
自宅で食べるのはもっぱら和食でした。
一汁一菜の食事の風景や、焼き芋屋さんの入り口を覗き込んでいる丁稚の少年の姿。
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まさに日常の風景そのものです。
その中に明治の人の生活の全てがありました。
家はもちろん明治に入っても日本家屋です。
長屋の生活があたりまえでした。
今から考えると不便な要素が多かったことでしょう。
台所の窓から、路地を流して歩く八百屋さんを呼び止める絵もありました。
家の中もさぞや暗かったことでしょう。
夏は仕方なく、縁台をだして、外で過ごしました。
近所の人たちが寄り集まって、世間話に花が咲きます。
もちろん、何もかもが良かったワケではありません。
不便なことも多かったでしょう。
それでもそこにある風情を描くことができた鏑木清方という人の目には、豊かな画材ばかりが並んでいたのです。
だからこそ、彼は心から幸福だったと呟くことができたのだと思います。
ぜひ、チャンスがあったら、実物に触れてほしいものです。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。