ローマの隆盛
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師のすい喬です。
今回はちょっと劇場国家について考えます。
といってもそれほどに大袈裟な話ではありません。
塩野七生の『ローマ人の物語』を読んだのはかなり前のことです。
全部で10冊以上はありましたね。
今では文庫本ですぐに読めます。
永遠のベストセラーといってもいいでしょう。
とにかく面白い本です。
これが生きている歴史かとしみじみ思いました。
彼女はヨーロッパの遊学から戻って、イタリアに関する著作を次々と書き始めました。
なかでもローマ帝国興亡の歴史を描いた『ローマ人の物語』は出色です。
友人に勧められて読み始めたら、やめられなくなりました。
なんといってもカエサルの登場前後が1番手に汗握りますね。
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ローマは1日にしてならずという言葉はまさにその通りです。
ぼくも2度ローマに行きました。
あんな街は世界のどこを探してもありません。
どこを掘っても遺跡にぶち当たるのです。
歩いていると街そのものが歴史だということがよくわかります。
誰もが必ず訪れたい街です。
映画「ローマの休日」にも名所がたくさん出てきます。
なぜあんなに国土を広げて、それでも繁栄したのか。
地中海全域にわたるのです。
縦横に道を繋げ、水道を作ったあのエネルギーはどこからくるのか。
考えてみると、不思議で仕方がありません。
1つの秘密はあのコロッセオでしょうか。
すごい建築物ですね。
日常に飽きる
ローマ帝国のことを考えていると、しみじみ思うことがあります。
それは実に単純なことです。
人はすぐに飽きるということなのです。
どんなに平和が大切だと言っても、人はすぐに飽きてしまうのです。
愛情もしかり。日常生活もしかり。
この飽きるという感情ほど厄介なものはありません。
どんなにおいしいものを食べ、広い快適な家に住み、いい洋服を着て、快楽をつくしたとしても、人はやはり飽きるのです。
初代皇帝アウグストゥスのしたこととはなにか。
もちろん武力での制圧も一方ではしました。
しかしそれだけでは人々はついてこなかったのです。
アルジェリアの辺境にも、ローマと同じ上下水道を敷き、公衆浴場も備えました。
しかしそれだけで人心の掌握はできませんでした。
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彼は何をしたのか。
コロッセオを作ったのです。
市の中心地にひときわ大きいのを作りました。
ぼくもこの遺跡には感心しました。
とにかく大きいですね。
地下に巡らされた細い回廊が上からもよく見えます。
その中を猛獣たちが歩いたというのです。
水を満たして、模擬的な海戦をもしました。
奴隷達や、闘士達が毎日スペクタクルを繰り広げたのです。
象と戦い、キリンと戦い、ライオンと戦い、そして海の戦いをも繰り広げました。
闘士たち
ー等席には当然元老員の面々が座ります。
中央の貴賓席には皇帝が陣取りました。
彼が指を下に下げれば、その場で闘士達の処刑が行われたのです。
この絶対的な権限を人々にみせつけることが、最大の目的でした。
人間は血を見ないと興奮しないものなのでしょうか。
スペインの闘牛のことをふと思い出します。
安寧と秩序の中にいるだけでは蕩尽の喜びを得られません。
人間はいつも酔いたいのです。
日常にはない、うねるような熱狂に身を委ねたいのです。
人々は常に祭りを欲しています。
日々、それが必要だとするなら、皇帝はローマ市民のために提供し続けなければなりませんでした。
それが可能な人だけが最高権力者になりうるのです。
お腹がふくれるだけではダメです。
サーカスが必要なのです。
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パンとサーカスの両輪をうまくアレンジできた人だけが、皇帝の座に長くとどまれました。
つまり劇場型国家の誕生です。
さて、私たちの日々はどうでしょうか。
コロナ禍の中です。
制御不能という表現で、もうこれは災害だというレベルにまで達してしまいました。
パンは足りています。
そこでサーカスのかわりにオリンピックという祭りを現出させました。
しかしそれほどの熱にはなりませんでしたね。
むしろ背景が見えすぎて、鼻白んでしまいました。
あえて良かったところをいえば、アスリートの持つエネルギーの美しさを感じたというところでしょうか。
しかしそれが消えてしまうまでの時間の短いこと。
その後に残されたウィズコロナの日常はどうなるのでしょうか。
大切なのは数字ではない
1億人がワクチンの接種を受けたと政府は盛んに宣伝しています。
私たちは日々伝えられる夥しい数の感染者数にも無感動になりつつあるのでしょうか。
制御不能といわれ、入院もかなわない現状の中で、祭りの後をどのように過ごせばいいのか。
この国がたどってきた劇場型の国家運営は途方もない出費をもって終わりました。
この後の時間の長さをどうやり過ごせばいいのか。
歌が必要なのでしょうか。
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それとも芝居なのか。
酒か、酔いか。
いずれにしても飽きてしまうことの恐怖を現代の人間はよく知っています。
新しい劇場にふさわしい芝居をもう次に要求しているのです。
もうそんなものはないのか。
あるいはどこかから発掘してこなければならないのか。
かつてアルチュール・ランボーというフランスの詩人がいました。
彼の呟いた詩句、「酔いたまえ」は実に重い意味を持っているような気がしてなりません。
酔えなくなった人々は、次にどこへ向かうのでしょうか。
祭りの後の寂しさ、虚しさを何が補ってくれるのか。
劇場型の国家運営は明らかに曲がり角にきているような気がします。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。