【待つことが苦しい】スマホが劇的に変えた現代人の行動様式とは

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待つ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師のすい喬です。

今のスマホで何台目ですかね。

その前のガラケーも何台取り替えたことか。

隋分捨てましたが、まだ押し入れの奥に1つだけ入っています。

なんとなく思い入れがありますね。

大袈裟にいえば、魂が宿っているような気がするのです。

その時代の自分の歴史がつまってます。

はじめて使いだしたのは、今から20年近く前でしたか。

正確には覚えていません。

生徒がポケベルをしきりにやっていたのが懐かしいです。

普段英語の単語を覚えるのに苦労している生徒ほど、ポケベルの配列をすぐに暗記してました。

今思えば、あれは何だったのでしょうか。

ぼくも教えてもらったものの、どうしてダメでしたね。

よっぽどの用事がなければ、必要もなかったです。

まだオモチャのレベルでした。

大通りをはさんだ学校の前に大きな電気屋がありました。

そこで我が人生、最初の携帯を買ったのです。

話し放題というのがついてました。

これで公衆電話を探さなくていいんだというのが1番嬉しかったですね。

原理なんて知りません。

ただのブラックボックスです。

それでも大変役に立ちました。

その頃はただの通信機です。

ゲームなんて、今から考えると赤ちゃん用の付属品レベルでした。

劇的な変化

それから数年の間に、携帯電話の普及は人々の生活を劇的にかえてしまいました。

待つことをしなくなったのです。

すれ違うことがなくなりました。

どんなに複雑な場所でも誘導してもらえば辿り着くことができます。

つまり相手をピンポイントで捕まえられるようになったのです。

雑踏が怖くなくなりましたね。

どれほど人がいようと、目的の人物に間違いなく会うことができるのです。

これは画期的なことです。

それまでは待ち合わせ場所に行くというのが普通でした。

忠犬ハチ公とか、銀の鈴とか、紀伊国屋の前とか。

懐かしいです。

そういうところで本を読みながら、相手が来るのを待ったのです。

考えてみれば長閑な時代でした。

今なら遅れるにしてもすぐ連絡ができます。

メールというのはすごいですからね。

ラインやメッセンジャーの方がより素早いです。

タイムラグがなくなりました。

日本中だけでなく、世界中のどこにいても瞬時に連絡ができます。

あたりまえのように使っていますが、これは空恐ろしい話です。

逆にいえば必ず出会えることが当たり前になりました。

すれ違うことはありません。

互いに会いたいと意識している限り、必ず出会えるのです。

孤独の時間

互いの名前さえ語り得なかったかつてのドラマはもう成立しません。

どんな時にも呼び出される可能性が増えたのです。

その分、孤独に耐える時間が減りました。

食卓にスマホを置いたまま、ラインをしつつ食事をするなどという風景も珍しくはないようです。

それならば人は寂しくなくなったのか。

そんなことはありません。

人は以前よりももっと人肌のぬくもりに飢えているのです。

いつも群れていなければ不安な状態が長く続いています。

グループなどを組んでSNSのやり取りをしていると、そこから外されることの不安も逆に芽生えてきます。

いわゆるハブられるという行為です。

自分の知らない間に、別のグループが出来ているということもあると聞きます。

どうしているのか、どこにいるのか、何を考えているのか。

たえずメールやラインをしながら、その不安をつぶさなくてはなりません。

どこでメールを終えたらいいのかもわかりません。

タイミングがとても難しいのです。

既読スルーなどという言葉がある通り、相手が読んでいないと不安が増します。

自分が最後の人間にはなりたくない。

その先のしんと静まった静寂が怖いのです。

というより、孤独がこわい。

国内にいても海外にいても、距離を意識せずにメールが飛び交います。

待つことができないだけ、人々の耐性は確実に落ちましたね。

いつもイライラしているのです。

スマホの画面をみていないと落ち着きません。

手紙の時代

キレるという表現も以前はあまり聞きませんでした。

誰もが待てなくなっているのです。

ちょっとしたことにもすぐ腹をたてる。

どこに心の芯があるのかみえないのです。

昨日の自分はもう今日の自分に裏切られています。

何が欲しいのかさえわからない。

あまりにも選択肢がありすぎて、選んだものが本当に自分にふさわしいのかどうかの自信が持てないのです。

かつては相手からくる手紙を待ちました。

そのギリギリの時間の堆積に人は鍛えられたのです。

その間にいろいろな想像をし、相手のことも自分のことも考えました。

そして少しずつ成長していったのです。

しかし今ではもう試されるということもありません。

あたりまえの平凡な日常が永遠に続く広い野を歩いていくしかなくなりました。

もう自分の台詞を朗々と語る劇場はなくなったのです。

誰もが瞬時に判断をせまられ、その後ですぐに後悔する。

どの街へいっても似た風景ばかりです。

ここは隋分レトロだなと思うと、プロデューサーのコーディネートが入っていたりします。

江戸情緒風はあっても、江戸の持っていた不便さそのものはもうないのです。

待てなくなったあなたはどこへ行きますか。

絵手紙でも書きますか。

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和紙と万年筆を持ってみますか。

選択の幅の狭い難しい時代になっています。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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