【教養】ゆとりと奥行きが抜け感を育て肩に力の入らない人間を作る

暮らし

教養の大切さ

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

ここのところ、人はどう生きたらいいのかと考える時間が増えました。

何をいまさらと言われればそれまでです。

しかし本当なのです。

年齢を重ねてきたからかもしれません。

いい人生をさらに歩みたいと思うようになりました。

しかし口で言うのは簡単ですが、その難しいこと。

いろいろな人の本を読みながら、うまく生きていくことは本当に大変だなと実感しています

先日も京セラを設立した稲盛和夫名誉会長の著書を読みました。

もちろん誰もが簡単にお会いできるような人ではありません。

しかし本を読めば、彼がどのような人で、何を大切にして今まで生きてきたのかを知ることができます。

本というのはありがたいものだとしみじみ思います。

極端なことをいえば、何千年も前の人にも会えるのです。

その悩みを同時に共有できる。

こんなにすごいものはありません。

稲盛さんは西郷隆盛の遺訓集をいつも読み返すそうです。

トップに立つ人間の苦しさと孤独をその言葉の中に見出し、今日まで歩んで来たとか。

1番好きな言葉は「敬天愛人」

どんなことがあっても人の道を踏み外して天に恥じるような行いをしないこと。

数万人の会社のトップに立てば、どうしても損得でものを考えようとしがちです。

しかし自分の欲を全て捨てて経営にあたること以外に道を開く方法はないと述べています。

読むだけで息苦しくなりますね。

その覚悟がないものはトップを去れということです。

身内でもない人間の生活を全て経営者は背負うのです。

その苦しさは想像を絶するものでしょう。

人を愛するという言葉の重みもそこにあります。

従業員に喜んでもらうこと。

誇りを持って働いてもらうこと。

物心両面の幸福を追求する以外に会社を経営する意味はないのだそうです。

人の見方

初対面の人と出会った時に、わたしたちはどこを最初にみるのでしょうか。

第一印象というのは大きいですからね。

やはり着ているもの、仕草、身だしなみ。

当然そこに目がいきますね。

しかしぼくはやはりその人の使う言葉だと思います。

別の言い方をすれば「話し方」でしょうか。

その人がどういう語彙を持っていて、どの程度の日本語を使いこなせるのか。

場合によっては外国語が入ることもあるかもしれません。

しかしその表現がどの程度、その場面に適切なものであるのか。

ただ難しい言葉を会話の中に入れたがる人もいます。

そのあたりをじっと観察すればいいのではないでしょうか。

特に敬語の使い方は大切でしょうね。

もちろん慇懃無礼はNGです。

詐欺師は紳士の恰好をしてやってくると言います。

人間の真贋を見抜くのは、なかなかの荒業だといつも感じます。

もう少し親しくなったら、さらにいくつかの点をチェックしましょう。

1番人間の原点がよく見えるのは食べる時です。

本能に近い分、生き様が仄見えます。

箸の使い方から、フォーク、ナイフまで、あらゆるシーンに生活のディテールが出ます。

怖いです。

洗練されるということ

お話をしながら、食事をするというのは大変に難しいことです。

その時のふるまい方などを見ていれば、どの程度の魅力をもった人なのかがすぐにわかります。

しかし簡単にそれらをクリアしていくのは苦しいことです。

1番大切なことは想像力かもしれません。

こういう時にこんな話をしてはいけないとか、むしろ積極的に話すべきとか聞くべきとか。

つまりTPOにあわせて、自分自身を演出していく技術もある程度は必要です。

それが最初は苦しいことであっても、やがて自然にできるようになっていきます。

言葉の癖などもそうでしょうね。

自分が毎日使っている言葉の中で、これは聞き苦しいなと感じたら、即刻やめることです。

2度と使わない。

自分が嫌だと感じることは他人も不愉快なのです。

いつも使う言葉が貧弱だと思ったら、豊かにすることを考えなくてはなりません。

「めっちゃ」「ださい」「やばい」「まじ」で話をしていれば、それだけの内容しかありません。

別の豊かな日本語に少しだけ切り替えるだけで、友達もかわってくるのです。

怖いことです。

人間はいつも自分がつきあえる可能性のある人間を探しています

同じ周波数の人が似たような電波を感じて集まるのです。

類は友を呼ぶとは、けだし名言です。

geralt / Pixabay

基本はやはり本でしょう。

本を読めば世界の形が違ってきます。

言葉も変わります。

ものの考え方も変化します。

全てがかわります。

積極的に外へ

ものの真贋は毎日ホンモノを見ている人にはかないません。

どんなに精巧なものでも見抜きます。

それは目が慣れているからです。

飲み物でも、食べ物でもこの味は今までに飲んだり食べたりしたことがないほどのものだと感じたら記憶にとどめることです。

先代の名人桂文楽は弟子たちに、今食べたものの味を覚えておきなさい。

それが必ず芸になるといつも言っていました。

生きることはある意味、芸なのです。

過去の記憶の中からすぐにそれが呼び出せるかどうか。

そこにかかっています。

この場所でこの時間にこの話をしたらいいのかどうか。

それを過去のデータベースの中から一瞬で抜き出す能力。

それが本当の教養というものでしょう。

頭の隅にあるだけではダメです。

覚えているだけでもダメです。

いつでもどこでも引き出せるように腹に入っていること。

世の中の複雑な側面を何度も見て共感し、それを自分のものにして、言葉にも態度にも自然にあらわせる。

そこまでいかなければ本当の教養とはいえません。

身体を何度か振ったら飛んでどこかへいってしまうようなものはただの記憶でしかありません。

骨の髄までしみこんだもの。

悔しい思いや悲しい記憶を乗り越えた強さ。

そうしたものが本当の力になるのです。

自分の中で消化し、身につけたものは一生消えません。

いつもゆとりと奥行きが出せるのは、その苦しさを抜けてきたからです。

抜け感があれば肩に力は入りません。

その苦しみからの脱出方法を知っているからです。

若い時の苦労は買ってでもしろとよく言います。

スポンサーリンク

本当にそうですね。

「抜け感」はオシャレだけの語彙ではありません。

生きる上での言葉そのものなのです。

最後までお読みくださりありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました