大島への旅
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今年もコロナ禍の1年ですね。
経済を回すために、特別の規制はしていません。
そのためか、あちこちへ旅行する人も多いようです。
しかし電車はやめて車で行くとか。
いろいろ工夫しているという話も聞いています。
旅行助成金について、夏休みに入る前には盛んに報道されましたが、いったいどうなったのやら。
金額まで発表されて景気のいい話でしたが、なんともつらい現状です。
ぼく自身も祇園祭に行く予定でしたが、それも取り止めました。
もう夏の京都は無理かもしれません。
暑すぎますね。
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修学院離宮の参観も予定に入れていたのです。
宮内庁のHPに入り予約をしていました。
説明によれば3キロは歩くとのこと。
35度以上の気温の中を3キロも歩くというのは、容易なことではありません。
庭園の中は起伏があります。
当分、これもお預けですね。
先日、つい何気なくテレビをみていたら、大島のルポをやっていました。
東京在住の人なら、少しホテル代などが安くなるようです。
そういえば、大島は東京都でした。
小笠原などがにぎわっているのも、そのあたりに理由があるのかもしれません。
遙か昔のこと
テレビを見ながら、突然学生時代のことを思い出したのです。
随分以前のことになります。
ふらっと竹芝桟橋から東海汽船の船に揺られて、着いたのは翌朝のことでした。
大島には2つの桟橋があり、風の向きでその日の停泊する場所がかわります。
元町と岡田漁港です。
大きな船でしたが、外海に出るとかなり揺れました。
船底のようなところで横になってはみたものの、気持ちの悪いことにかわりはありません。
どうも船は苦手です。
全くそれはひどいものでした。
船を下りても、どこへ泊まるという当てもありません。
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ぼくの旅はいつもその日の予定もなかったのです。
さっそく砂漠へ行こうと思いました。
あの頃は安部公房の『砂の女』の世界に近しいものを感じていました。
とにかく一面の砂を見たかったのです。
三原山は火山石ばかりがごろごろしていて、なんともすごい風景でした。
そこから一気に裏砂漠へ出ます。
かなり歩きました。
その間、ほとんど誰にも会いませんでしたね。
とても心躍る時間でした。
暑かったことに違いはないのですが、今より体力は確実にありました。
あの頃は人の行かない場所へ場所へと自分を誘っていたような気がします。
随分妙な学生でした。
さてそこから大島公園へ入り、椿の森の中を歩きました。
島の空気には特有の湿気が宿っています。
それもまた心地よいものでした。
だんだん日暮れてくるにつれ、さてどこへ泊まったらいいものかと思案し始めた折、民宿の文字がぽつんと1つだけ見えました。
泉津の民宿
場所は泉津というところです。
泊めてもらえるかと訊くと、まだ民宿を始めたばかりのところのようで、どうぞと早速中へ通されました。
結局、その日の客はぼく1人でした。
食事の間、ご主人といろいろ話をしました。
なんでも東京からこの地が良くて引っ越してきたものの、なかなか土地の人間にはしてもらえなかったとか。
このあたりの事情はどこへいっても同じですね。
日本人のウチとソトに対する態度は昔からのものです。
これも島国根性の1つなのかもしれません。
それでもやっと最近、近在の人がいろいろと声をかけてくれるようになったというようなことを問わず語りに聞かせてくれました。
将来なんとなく教員になれればいいと思っていたぼくは、大島にある高校の話などをしました。
この島に赴任することがあったら、のんびりとこういう風に暮らしてみたいものだと考えたのです。
ご主人は名物のアシタバをこれでもかというくらい天ぷらにしてくれました。
おひたしにもしてもらいました。
お風呂は昔ながらの五右衛門風呂です。
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これもなかなか味わいがありましたね。
いつか教師になれたら必ず来ようと心に決めたのです。
家に帰ってからも何度か年賀状などのやりとりをしました。
父や母も喜んで、翌年同じ民宿を訪ねたようです。
口べたな人だけどいい人だな、と父は話していました。
ああいう人は好きだと言いました。
三原山噴火
教員になるまで、その後いろいろと紆余曲折がありました。
大学を出てから出版社に勤め、記者生活をしたのです。
その後、教員になりましたが、結局大島の高校へ行くことはありませんでした。
やがて数年して三原山が噴火し、全島避難などという大惨事もありました。
その翌々年から数年間にわたって、ぼくはクラブの合宿で大島を訪ねたのです。
大島には東京都のセミナーハウスがあります。
熱海から水中翼船に乗ってでかけました。
演劇部と合唱部の合同合宿です。
一緒に行った顧問の先生と御神火焼酎を飲みながら、夜中まで話をした記憶もあります。
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翌日にはセミナーハウスのすぐそばにある小さな島まででかけて、海水浴もしました。
全てが懐かしい思い出です。
しかし泉津の民宿を訪ねることはありませんでした。
いい思い出をそのままの形で封印しておきたかったのです。
ご主人はもうお亡くなりになっていることと思います。
時が遙かに経ちました。
大島は今でもぼくにとって大切な記憶を埋めた場所の一つになっています。
人と出逢うということは、一期一会の奇跡に彩られています。
それだけに大切にしなくてはならないと心に思う今日この頃です。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。