人々が純朴だった
みなさん、こんにちは。
ブロガーのすい喬です。
年齢を重ねた人の合言葉はさて何でしょう。
じっと耳をすませて聞いていると、必ず聞こえてくるのがこれ。
「昔はよかった」
よく耳にします。
しかし本当にそうなのでしょうか。
昔はそんなによかったんでしょうか。
今日はちょっとそんなことを考えてみたいのです。
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真剣に本当にそう思いますかと訊かれると、ちょっと不安になりますね。
確かにインフラの整備は遅れ、街は汚かったです。
雷が落ちればすぐに停電し、川は氾濫しました。
道路はでこぼこで、舗装も満足にしてないところがあちこちにありました。
デパートも暗くて、商品の数も今ほどはありませんでした。
宅配便もなく、チッキと呼ばれる駅留めの荷物を取りに行くしかなかったのです。
なにそれの世界ですよね。
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自分で駅までものを荷物を取りにいくなんて、アンビリーバブルそのものです。
しかしそれが当たり前でした。
自動車の値段はべらぼうに高く、遠くから走ってくるのをただ見ているだけの乗り物でした。
まさか後になって自分が通勤に使う日が来るなどとは、想像もできなかったのです。
地下鉄は未整備で、どこへ行くのも大変でした。
路面電車やトロリーバスが都会の道路を縦横に走っていたのです。
出張も大変
大阪までの出張などといわれれば、泊まりがけの大仕事でした。
電話回線は少なく、連絡をとるのも容易ではなかったのです。
内風呂のある家は少なく、銭湯に通わなければなりませんでした。
ことほど左様に何もかもが不便だったのです。
これでも昔はよかったと言えるんでしょうか。
それに比べれば、現代はすべてこの裏返しです。
そう考えると、確かにその通りです。
しかし人情は昔の方があった、という人もいるでしょう。
人の関係が濃密だったのかもしれません。
それは社会のシステムが、今よりコミュニケーションを必要としたからなのです。
みんな貧しかったので、助け合わなければ生きていけませんでした。
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スーパーがない時代、誰もが個人商店へものを買いに行ったのです。
個別宅配なんて夢のまた夢。
店のおじさんともよく話をしました。
時にはまけてもらうこともありましたね。
現代のようにキャッシュレスで決済できたら、話がはずんだでしょうか。
学歴社会の構図も今より強くはっきりしていました。
格差もすごくあったのかもしれません。
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しかし殆どの人が貧しかったので、学校へ行きたくても行かせてれと親に言えませんでした。
高校へ行くことすら、考えない人が多かった時代もあるのです。
生まれた家の状況で、ほとんど将来が決まっていました。
無理に学校へ行きたいといえば、親不孝の元になったのかもしれません。
環境により、情報量に限界がありました。
テレビもなかったのです。
ニュースは遠い世界の話でした。
移動もままならず
人はほとんど生涯に移動ということをしませんでした。
生まれた場所で生活し、そのまま死んでいったのです。
それでも昔はよかったと言えるのでしょうか。
東北からの集団就職の列車の映像は本当にこんなことがあったのかと思わせるものばかりです。
金の卵といわれ、新しい労働力として、都市に吸収されていきました。
一般的に言えば、システムについていけない人間は、過去を振り返る以外に方法をもたないのかもしれません。
これは少し厳しすぎる考えかもしれませんね。
しかし一面の真理をついているような気もします。
老いるということはまさにそのことを意味するんでしょう。
よくよく考えてみれば、そんなに昔だって楽ではなかったのです。
お風呂に入るのだって薪をくべ、石炭に火をつけました。
煙突掃除は厄介な仕事でした。
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ただひとつだけ言えるのは、情報が少なかっただけに人々は自足することを知っていたということです。
親や親戚を代表とする地域コミュニティが世界のすべてでした。
それをよかったというのなら、確かにそれは一つの価値の体系ではあったと思います。
親は今よりもずっと子供たちに信じられていました
確かな存在だったのです。
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それに比べると今の親たちは不安でいっぱいなような気がしてなりません。
世界があまりにも流動化し、価値の基準がみえなくなっています。
よく考えてみたら確かなことが1つありました。
空気が今よりはずっとずっときれいだったというのがそれです。
これだけは確かですね。
のんびりしていたのは本当です
ここまで随分と昔批判ばかりになってしまいました。
昔はのんびりしていたという説からもう1度振り返って考えてみましょう。
確かにその通りですね。
本当にのんびりしていました。
ITなどというものも光通信も携帯電話もなかった。
テレビもなかったのでよく外で遊びました。
親と話し、兄弟でじゃれあったものです。
食事はいつも家族一緒でした。
父親が床柱を背に座るという構図が明確にあったような気がします。
高齢者を大切にするのは当たり前でした。
平均寿命が今ほど高くありませんでした。
だから老人問題も年金の枯渇も医療費の増額も考えなくてよかったのです。
もちろん消費税もありませんでした。
それよりなにより、人々が純朴でした。
情報がなかったからです。
きっとある種の人間だけに独占されていたのでしょう。
マスコミが今ほど発達していない状況の中で、ものを知ることは大変な労力を要しました。
人々の宗教に対する意識も今より強かったですね。
大げさに言えば、多くの人は宇宙につながっていました。
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人の死も近かったです。
お葬式も家で営まれることが多かったのです。
今のように深く隠そうとする意志は働きませんでした。
それにひきかえると、現代はすべてこの逆です。
地域コミュニティがほぼなくなり、子育ては最大の難問になりました。
今地球はすべてがつながってしまっています。
距離も時差もないのです。
いろいろ考えてみると、やっぱり昔はのんびりしていてよかったのかもしれません。
なんなくそんな気もしてきました。
狭いながらも楽しい我が家の構図はどこへ行ってしまったんでしょうか。
さて、昔と今。どっちがいいのか。
いろいろ考えていると、なんだかよくわからなくなってきました。
みなさんもいろいろと考察してみてください。
みんなで一緒に歌える歌もいつの間にかなくなってしまいましたね。
今回も最後まで暢気な話におつきあいいただき、ありがとうございました。