【ワキは旅人】本質を分けるという意味の語源に能の醍醐味を見た

ノート

ワキは脇役ではない

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は「能」の話をさせてください。

そんな面倒くさい時代遅れの芸能につきあっていられないという人も多いでしょうね。

昔、高校時代に1度だけ、芸術鑑賞の時間に見たことがあるなどという人もいるかもしれません。

歌舞伎も似たようなものでしょうか。

ぼくも生徒をよく国立劇場の歌舞伎鑑賞教室へ引率しました。

国語科の行事でしたのでね。

予約をとるのも大変だったのをよく覚えています。

生徒の大半は寝てました。

退屈だったんでしょうね。

聞いたこともないようなセリフ回しをずっと耳にしていると、完全に子守唄に聞こえてきたのかもしれません。

それでもいいのです。

実際に劇場で見たという体験は貴重なものです。

能に関してはほとんど授業で扱ったことがありません。

世阿弥の『風姿花伝』の一部をやった記憶があります。

しかし1~2度だけだったような気がします。

教科書には載っていません。

あまりにも難しすぎたようです。 

生徒を引率して能楽堂へ行くということもなかったですね。

ある高校に在籍していた時には、能楽師の方が来てその場で舞ってくれたことがありました。

これは国際理解という授業で1年間、能を学んだからです。

せっかくだから授業をとっていない生徒にも見てもらおうというワケで、講師だったシテ方の能楽師が面をつけて舞ってくれたのです。

その前に鼓や太鼓に紐を実際にかけてしめるところも見せてくれました。

これは本当に特別の授業でしたね。

それ以外にほとんど経験がありません。

能の誕生

能はいつからあるのか。

さまざまな本にその由来が書いてあります。

成立したのは室町時代です。

650年を越える歴史があります。

日本の代表的な古典芸能といってもいいでしょう。

しかし古いばかりではありません。

今も生きています。

現代にまでその命が続いているのです。

世界の演劇の1つといっても過言ではないです。

三島由紀夫は代表的な能を脚色して『近代能楽集』を完成させました。

今でも時々、上演されています。

この芸能を完成させたのは観阿弥、世阿弥の父子でした。

足利義満が世阿弥を庇護したことも大きかったです。

世阿弥もそれによく応えました。

彼にとっては生きていきていくための唯一の手段が能だったのです。

今日演じられている多くの作品は世阿弥作のものが主です。

それだけセンスのある人だったのでしょう。

よく言われるのが複式夢幻能と呼ばれるものです。

登場人物はだいたい亡くなった人です。

現世に深い想いを抱いたまま、来世に旅立った人ばかりなのです。

女性も多いですが、修羅物と呼ばれる男性が中心の能もたくさんあります。

男性が主人公の作品は圧倒的に『平家物語』から題材がとられています。

登場人物が女性の場合は年若い人から老婆まで様々です。

『伊勢物語』『源氏物語』などに取材してつくられた作品が多いですね。

それだけ女性は現世に対して執着を残して亡くなったのでしょう。

とくに愛情に絡むテーマは若い女性の独壇場です。

シテとワキ

能で活躍するのはシテと呼ばれる主役です。

ほとんどシテが全ての中心です。

シテ方と呼ばれ、シテの役以外は演じません。

いつも主役なのです。

面をかぶって舞を舞うのもシテです。

そのほとんどが亡くなった人の役です。

歴史的に由緒ある場所に現れることが多いです。

ではワキは何をするのか。

最初に舞台にあらわれ、自分が旅の僧であるなどと名乗り、あとは隅の方に座ってしまいます。

それだけです。

あなたは実際に能を見たみたことがありますか。

ぼくもこの2年間は全く能楽堂に行っていません。

それ以前は月に1度は顔を出しました。

東京には大きな能楽堂がいくつもあります。

以前、松濤にあった観世能楽堂は今は銀座のビルの地下に移転しました。

その他、千駄ヶ谷の国立能楽堂、目黒の喜多能楽堂、渋谷のホテルの地下にあるセルリアンタワー能楽堂、矢来能楽堂、青山能楽堂などもあります。

1度は覗いてみてください。

話はそこからです。

ワキは見えないものを見る人

あの鼓と太鼓、それに笛の音を耳にした途端、もう全く別世界へ誘われていくのです。

650年間、変わらずに演じられてきたことに対する怖れを感じます。

言葉がわからないということもあるでしょう。

しかしそれは気にしないことです。

どうしても知りたければ、ネットで能のタイトルを打ち込み、詞章とググればある程度の内容を知ることができます。

最初に登場する人物をワキと呼ぶと言いました。

「分ける」「分からせる」の意味です。

今日の芝居でいうところの脇役とは全く意味が違います。

ワキ方になると、一生ワキだけの役をします。

この役柄の主目的は何なのか。

それはこのワキの目を通して、はじめてそこにあらわれたシテの本性がみえるのです。

観客はそのシテがどういう事情でここに登場したのかということを知ります。

つまり亡霊になってもまだ心が現世に残っている理由をワキが聞き出すのです。

能では旅の僧であることが多いです。

しかし「羽衣」のように漁師であることもあります。

そこにあった羽衣が天女のものであることを見抜いたのはこの漁師だけでした。

シテが抱いていた無念の気持ちを聞き出し、それを1つ1つ腑分けしていきます。

やがてシテは安心して1度幕の内に戻り、そこで本来の姿になって再び舞台へ戻ってきます。

悔しさを身体に滲ませながら舞を踊り、最後には心の傷を癒してもらってから再び来世に旅立つのです。

シテは必ず自分が六条御息所の亡霊だとか、義経の亡霊だとか名乗ります。

しかしワキは名乗りません。

ただ「北国の僧」であるなどと口にするだけです。

つまりアノニムな装置として機能します。

これがワキの持つ重要な要素なのです。

異界のものに出会い、それと知って心を慰める。

そのフィルターになるのがワキなのです。

ぜひ、1度能楽堂を訪れてください。

650年の間、ずっと絶えることなく続いてきた芸能には何かがあります。

明治維新の頃に、あわや消滅かという危機もありました。

しかし今、また復活しています。

高齢化社会を迎え、内情はそれほどに楽観はできません。

しかし脈々と続いているのです。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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