屈原の存在
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は漢文にチャレンジしましょう。
授業で習ったと思います。
漁父(ぎょほ)の辞です。
辞とは韻を踏んだ叙情的な文章のことをいいます。
屈原という人の名前を聞いたことがありますか。
戦国時代中期(BC340~BC278)の楚の人です。
国を憂う多くの詩を残しました。
秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めました。
しかし受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺したのです。
春秋戦国時代を代表する詩人としても有名です。
屈原を描いた絵を見たことがありませんか。
日本を代表する画家、横山大観のみごとなものがあります。
この絵をみると、なるほどこういう生き方をしたのだろうと納得させられてしまうのです。
原文は全て漢字です。
そのままでは意味がわかりませんので、書き下し文にしました。
漢字とひらがなの混じった文です。
読みにくい漢字だけに読みを入れました。
本文
屈原既に放たれて、江潭に游び、行(ゆくゆく)沢畔に吟ず。
顔色憔悴し、形容枯槁せり。
漁父見て之に問うて曰はく、
「子は三閭大夫(さんりょたいふ)に非ずや。何の故に斯に至れる」と。
屈原曰はく、
「世を挙げて皆濁れるに、我独り清めり。
衆人皆酔へるに、我独り醒めたり。是を以て放たれたり」と。
漁父曰はく、
「聖人は物に凝滞せずして、能く世と推移す。
世人皆濁らば、何ぞ其の泥を淈(にご)して、其の波を揚げざる。
衆人皆酔はば、何ぞ其の糟を餔(くら)ひて、其の糟をすすらざる。
何の故に深く思ひ高く挙がりて、自ら放たしむるを為すや」と。
屈原曰はく、 「吾之を聞けり。
『新たに沐する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ』と。
安(いず)くんぞ能く身の察察たるを以つて、物の汶汶たる者を受けんや。
寧ろ湘流に赴きて江魚の腹中に葬らるとも、安くんぞ能く晧晧の白きを以つてして、世俗の塵埃を蒙らんや」と。
漁父莞爾として笑ひ、枻(えい)を鼓して去る。
乃ち歌つて曰はく、
滄浪の水清まば、以つて吾が纓(えい)を濯ふべし。
滄浪の水濁らば、以つて吾が足を濯ふべしと。
遂に去りて、復た与に言はず。
現代語訳
屈原は、追放されて湘江の淵や岸をさまよい、沢のほとりで歌を口ずさんでいました。
顔はやつれて、その姿は痩せ衰えています。
ある年老いた漁師が彼に尋ねました。
「あなたは三閭大夫さまではありませんか。どうしてこんな(落ちぶれた)お姿になってしまわれたのですか。」と。
屈原は言いました。
「世の中の人々すべての心が濁っている中で、私一人だけが清らかです。そして人々がみな酔っている中で、私一人だけが醒めています。だから追放されたのです。」と。
漁師は言いました。
「聖人というものは、物事にこだわらずに世の中と一緒に移り変わります。世の中の人々
の心が濁っているならば、どうして一緒にその泥をかき混ぜて、波を立てないのですか。
人々が酔っているならば、どうしてその酒かすを口にして、その薄い酒を飲もうとしない
のですか。どういった理由で深く考え、お高くとまって、自分から追放されるようなこと
をしたのですか。」と。
屈原は言いました。
「私はこういうことを聞いたことがあります。『髪を洗ったばかりの者は必ず冠についた
よごれを払い、入浴したばかりの者は、必ず衣服のほこりをふるってはらう』と。
どうして清廉潔白なこの身に、世俗の汚れたものを受け入れることができましょうか、いやできません。
むしろ湘江に行って魚のエサになろうとも、どうして清廉潔白なこの身を世俗の埃の中にまみれされることができましょうか、いやできません。」と。
漁師はにっこりと笑って、船の縁を叩いて行ってしまった。
そしてその時、次のような歌を詠んだ。
滄浪の水が澄んでいるのなら、私の冠の紐を洗おう。
滄浪の水が濁っているのなら、私の足を洗おう。
とうとうそのまま去ってしまい、2人はもう2度と語り合うことがありませんでした。
水清ければ
世間がいくら汚辱にまみれているとしても、それは自分とは無関係であるとして生きるのか。
あるいは仕方のないことだと見切りをつけて、その中に入っていくのか。
どちらの生き方をとればいいのでしょうか。
屈原は世の中の人たちは皆、酔っていると表現しました。
「水清ければ魚住まず」という諺があります。
ご存知ですか。
まったく濁りのない水にはなんの餌もありません。
それでは魚が生きられないのです。
その濁りの中に身を浸して生きていくのがいいのか、やはりそれも許されないのか。
どちらの生き方をとればいいのでしょうか。
非常に難しい判断だと思います。
この2人の姿からは儒家と老荘思想の理想の違いを見出すこともできます。
屈原は儒家の思想を、いっぽう漁父は老荘思想を体現しているともいえます。
あるいは、屈原、漁父のどちらも屈原自身の心が生み出したものであるとも考えられます。
理想を求める自己と世間の中で生きていく自己という解釈も成り立ちます。
2人が別れる時、漁父は莞爾として笑いました。
まさににっこりと微笑んだのです。
2人の意見にはどこにも共通点はありませんでした。
漁父はなぜ笑みを浮かべたのでしょう。
そこまでいうのなら、あなたはあなたの道を行きなさいと呟いたのかもしれません。
うまくいくことは保証できないけれど、それも人間の生き方の1つには違いないという気持ちがあったのかもしれません。
しかし漁父は明らかに屈原の未来を予見していたとも言えます。
この人はいったい何者だったのでしょうか。
儒教が中国の国教となってからも老荘思想は人々の精神に潜み続けました。
儒教のモラルは堅いものです。
時に疲れてしまうこともあったに違いありません。
そうした時、人々は老荘を思い出したのです。
政治に関わることで人生を使い果たしてしまうより、世俗から身を引くことの方がむしろ生きやすかったのです。
老荘思想の目標は無為自然だといいます。
しかし何もしないのを意味するワケではありません。
むしろ積極的に無を探し続けるのです。
老荘思想はやがて禅の思想にも大きな影響を与えました。
あなたはどちらの生き方を取りますか。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。