【真夏の死・三島由紀夫】子供を失った母親が見た海の風景【死生観】

真夏の死

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は教科書に載っていない三島由紀夫の小説について語ります。

というより、彼の作品は殆どが載せられない作品ばかりです。

没後50年を過ぎて思想性が透過されたのでしょうか。

近年、作品の評価が前面に出てきたような気がします。

いわゆるラノベ小説とは全く違う、日本語に対する美意識が見事です。

その絢爛とした言葉の中に遊ぶことが可能なのです。

今日では全く使われることのない、古文と漢文を深く学んだ人間の持つ表現能力です。

読んでいても舌を巻くような記述があちこちに出てきます。

これだけ言葉を知っていた作家はいないのではないでしょうか。

三島自身もインタビューで語っています。

自分の文学はぎりぎりと絞り込まれていくので、そこに余白が見えないと。

どこかへ飛翔していくというタイプの言葉ではないと自覚していました。

理詰めで読者を追い詰める。

その勢いで読ませるのです。

そういう意味で彼が師と仰いだ川端康成にはかなわないと呟いています。

突然、全く違う次元に投げ出されてしまうような表現の酩酊感が自分にはないと三島は言っています。

ここまで自分の文章の特質を見抜いていた人はそういないでしょうね。

日本画の持つ余白の美とは全く違う世界。

それを言葉で作り出したのが三島由紀夫なのです。

今回扱う『真夏の死』は衝撃的な作品です。

とにかく読んでみてください。

そこからしか始まらないくらい、人間を分析し続けた小説です。

人間観察力

この作品は自選短編集の中に所収されています。

彼は後に全く短編を書かなくなりました。

発表されたのは1952年8月です。

発表されたのはその年の10月『新潮』誌上でした。

あらすじは主人公、生田朝子がある夏の日、6歳の息子と5歳の娘を海の事故で亡くすところから始まります。

さらに下の3歳の息子と、夫の妹とで、伊豆半島の南端に近い海岸に遊びに行った時の話です。

事件は彼女が旅館で休んでいる時に起こりました。

子供3人を連れた夫の妹が心臓麻痺を起こします。

突然のことで子供のことが視界から消えてしまったのです。

周囲にいた人たちも、まさか幼い子供が波にのまれたということまで気づかずにいました。

3歳の息子だけが生き残り、2人の子供が亡くなったのです。

ここから三島の想像力の怖ろしさが目立ちます。

2人の子供を失った母親とそれを脇で見守る夫との関係が描写されていくのです。

課題は時間との戦いでした。

弔いの儀式を経て、周囲の人々の対応などが詳細に語られます。

自分が子供を殺してしまったという自責の念とともに、自分も被害者であるという2つの側面をもったまま、日常生活が続きます。

やがて時間の流れとともに主人公は悲しみを忘れていくのです。

なんとか悲劇の主人公でなければならないという悲しみを維持しようとしても、それができません。

やがて彼女は妊娠をします。

不幸で正気を失うこともなく、再び子を授かるということに対する絶望は強いものでした。

一家の喜び

ついに赤ん坊がうまれた翌年の夏、主人公は再び、あの海岸を訪れたいと夫に告げます。

やっと忘れようとしていた夫は納得できません。

しかしついに出かけることになりました。

夫は再三、なぜ行きたいのかを訊きます。

しかし彼女はわからないというだけでした。

家族4人はとうとう波打ち際に立ちます。

夫は彼女の横顔を見ます。

海を見つめたまま無言なのです。

何かを待っているようにも見えます。

最後の部分だけをここに再録しましょう。

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『お前は今、一体何を待っているのだい』

勝はそう気軽に訊こうと思った。

しかしその言葉が口から出ない。

その瞬間、訊かないでも、妻が何を待っているか、彼にはわかるような気がしたのである。

勝は悄然として、つないでいた克維の手を強く握った。

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(注) 勝 夫の名前 克雄 生き残った男の子の名前

三島はこの作品は1番最後の部分をクローズアップするために、書き込んだと述懐しています。

つまり最後のこの数行のために全ての文章があるというのです。

多くの評論家はその秘密を解き明かそうとしてきました。

子供達の死の衝撃から立ち直る主人公の女性の中に、何が待たれていたのか。

どんな不幸があっても正気を失うことなく、日常を紡ぎ出していくのが人間です。

忘れる動物でもあり、忘れられない生き物でもあります。

自選集解説

三島は自分の作品を最後に解説しています。

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或る苛酷な怖ろしい宿命を、永い時間をかけて、やうやく日常生活のこまかい網目の中へ融解し去ることに成功したとき、人間は再び宿命に飢ゑはじめる。

このプロセスが、どうして読者にできるだけ退屈を与へずに描き出せるか、といふ点に私の腕だめしがあった。

小説のはじめに最も刺戟的な場面を使ってしまへば、そのあと、読者は何ら刺戟を受けなくなってしまふ惧れがあるからである。

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この作品は逆三角形の構造になっているのです。

最初にカタストロフをもってきてしまうと、読者が飽きてしまうからだと解説しています。

ということは海辺にたって椿事がおこるのを待つという主人公の姿がまさに作者の臨んだできごとだったということなのです。

それは何のことなのか。

そのヒントはタイトルの中にあります。

まさに「死」そのものです。

「死」を思い出す事が「死」を待ち望むことへの甘い誘惑に切り替わっていくのです。

平穏な日常に飽き飽きしていた彼の横顔が見て取れますね。

どのように社会的な地位があがろうと、そんなことは些事にすぎません。

金銭的な成功もなんの幸福感を与えるワケではないのです。

甘い誘惑とは何かといえば、それはまさに「真夏の死」です。

女性の主人公に仮託した作家の胸の中には、熱い死への予感が満ちていたに違いありません。

それを読者は感じるのです。

夫はその予兆におびえます。

死の光から透けて見える世界にしか、主人公の生の意味はありません。

生き残った男の子の手を握りしめながら、この家族はどこへ進むのか。

これ以後の作品を読み進めていけば、自ずとその形が見えてくるに違いありません。

彼の思想の原型をなす作品だといわれる所以なのです。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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