主語と述語
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
本当に長い間、生徒の答案を添削し続けています。
もっとも多いときは年間に1000枚以上の小論文を読みました。
最初の数行を読むと、ある程度その生徒の実力がわかります。
一種の慣れですかね。
言葉の使い方をみれば、おおよそのことがわかるのです。
最初にどのくらいのレベルなのか、見当をつけてから読み始めます。
その予想がはずれるということは、ほぼありません。
採点者は答案のどこを最初に見ると思いますか。
基本は「てにをは」の正確さからです。
日本語は主語と述語の関係が微妙です。
助詞の使い方1つで内容がガラリと変わってしまいます。
本当に難しい言語なのです。
最後まで文章を読まないと、肯定なのか否定なのかもわかりません。
主語と述語がきちんと対応しているということが、なによりも基本中の基本です。
文章を書いているうちに、どれが主語でどれが述語だったのか、わからなくなってしまうケースが多いのです。
「私は」から書き出せば、当然述語はそれに応じた表現でなくてはなりません。
しかしそれすら満足にできない人がいます。
急に使役や受け身の表現がでてきて戸惑ってしまいます。
文章を書くということの基本が完全にできていないのです。
書く練習をしよう
もちろん、すべての文章がねじれているというワケではありません。
ところどころがおかしいのです。
だからこそ読んでいると、何を主張しようとしているのかわからなくなってしまいます。
あなたには思い当たることがありませんか。
普段から文を書く練習をしていない生徒に多く見受けられる現象です。
これから勉強しようという人は、必ず主語と述語の対応を心がけてください。
日本語には決まりがたくさんあります。
全然という表現の後には基本的に否定形がきます。
「全然よくない」という言い方はあっても、「全然いい」というのはないのです。
しかし口語では多くの人がよく使います。
「全然かっこいい」という表現は、ごく普通に使われていますね。
かなりの人が日常的に喋っています。
しかしこれは誤りです。
だからこそ、小論文を書くときに困ってしまうのです。
それがNG表現だということを知らないからです。
最近、よく見かける例を挙げましょう。
「違くて」「違かった」がそれです。
これが正確な表現ではなく、誤りだとわかっていればそれでいいのです。
しかしかなりの生徒が、当たり前のように使っています。
論文の中にこの言い回しがあると、それだけで力が抜けてしまいます。
違和感がぬぐえません。
なぜ間違いなのか、少し説明しましょう。
文法的な要素がたくさんあるので、簡単に解説します。
「違くて」と「違かった」
「違かった」はかなり広い範囲で使われていますね。
関東全域に広がっている一種の方言です。
その一方で若者言葉の代表の1つでもあります。
「動詞を形容詞のように使う」用法の代表例なのです。
一般には「違くて」とか「違くない?」などと会話のなかで用いられます。
「違う」は動詞です。
活用はご存知ですね。
その一方で形容詞の活用はどうなるのか。
「軽い」を例にとります。
軽カロう・軽カッた・軽イ・軽イとき・軽ケレば、と活用します。
そこで、同じように「違う」を考えてみましょう。
この動詞を形容詞のように使おうとすると、次の表現が出てきます。
つまり動詞の「違う」を「軽い」のように無理に形容詞に似た活用をさせるのです。
その結果、「違クない、違カッた、違クて」が出現します。
これがそのまま方言になり、さらに若者言葉になりました。
つまり「違かった」は本来存在しない表現を、人為的に作り出した言葉なのです。
しかし多くの人が使うために、今日では会話の中に自然に取り入れられています。
その意味では「ら抜き言葉」とケースが似ていますね。
可能の意味の助動詞の使い方としては「食べられる」が本来です。
ところが、今日では「食べれる」も通用しています。
「着られる」は「着れる」といった具合で、可能の助動詞に「る」と「らる」があるため、相互乗り入れの状態になっています。
しかし小論文を書くときは時はどうなのか。
やはりNGです。
「ら抜き言葉」で書かれた答案は評価が下がります。
日本語を知らないということになるのです。
会話にも要注意
似たような表現はいくつもあります。
受験生が小論文で「まじ」「ぶっちゃけ」などという表現を使うということはないと思います。
しかしここに示したようなかたちで、似たパターンの誤用が出てくることはいくらもあるでしょうね。
自分で誤りではないと信じているだけに、厄介です。
解決法はいくらでもあります。
基本は正確な文章をたくさん読むことです。
それがなによりです。
もう1つだけ大切なことを書いておきます。
小論文には極力会話を使わないことです。
論文は論理の筋道が全てです。
論点を積み重ね、最後に明確な結論を示します。
そのために、会話が必要かといわれれば、なくても十分に成立する場合が多いと答えています。
むしろ字数稼ぎと思われてしまう可能性すらあります。
どうしてもそこに会話が挿入されなければならない必然性があるならば、認められる時もあるでしょう。
しかし基本的には不要です。
会話が入ることで、全体の文章のバランスが崩れます。
構造的にみると、カギカッコが入ることでそこに多くの空白が生まれます。
前後の文脈の流れが不自然になってしまうケースがあるのです。
どうしても必要な場合以外は、会話を論文中に入れるのはやめましょう。
お勧めしません。
文全体のバランスをうまく組むという基本を忘れずに、最後までまとめてみてください。
小論文はけっして易しいものではありません。
しかし勉強する価値はあります。
ここで獲得したスキルは長い人生の中で、大きな役割を果たします。
存分に実力を養ってください。