【小論文】世阿弥の言葉から真似ることの意味を捉える【町田高校推薦】

学び

都立高校推薦入試

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

都立の推薦入試は一般入試に先がけて通常、1月下旬に実施されます。

合格人数は定員の20%です。

発表は約1週間後。

試験科目は面接と小論文(作文)のみです。

内申書の合計点が一定の割合で換算されます。

合否はこの合計で決まるのです。

配点の比率は学校によってそれぞれ違います。

一般に面接より、小論文の得点比率の方が高いです。

その違いについては、受験する高校のHPなどでしっかり確認してください。

近年は以前より内申書の換算比率が下がる傾向にあります。

学校間の格差などもあり、内申書だけでは不明確な点も多々あるという判断なのでしょう。

むしろ当日の面接と小論文の出来をみて、合否を判断したいと考える高校が多くなっているようです。

設問の内容も学校によって千差万別です。

相当な難問もあります。

大学入試にそのまま使っても遜色のない問題もあるのです。

毎年、各学校の問題をチェックしていますが、テーマは実に多様です。

難易度の高い高校では、環境問題のグラフなどとSDGsとの関連をたずねる設問などもよく出題されています。

社会学や、経済学の知識を問う学校もあります。

かなり広い分野にわたって勉強しておかないと、その場で合格答案をまとめるのは難しいでしょう。

本当の実力がなければ入学はかなわないと考えてください。

学びの意味を問う

今回は令和3年度都立町田高校の入試問題を取り上げます。

最初に課題文を読んだ時、受験生にどの程度意味が理解できるかと考えました。

出典が世阿弥の芸術論と重ねた学習論だったからです。

世阿弥は室町時代の能役者です。

父観阿弥が大成した能をさらに芸術性の高い舞台芸術に仕上げた人といってもいいでしょう。

中学生で『風姿花伝』を読んでいる人はほとんどいないはずです。

そこでの中心的な文章にスポットをあて、学ぶとはどういうことかという学問の本質論を考えさせる問題です。

文意そのものはある程度じっくり読めば理解はできます。

しかしそこで世阿弥が述べようとしたことを、体感するのは大変に難しいです。

設問は次の通りです。

世阿弥の立場に立って、「学び」への取り組みについてのあなたの考えをこれまでの体験や見聞をもとに400字以内で文章にまとめなさい。

これは厳しいと言わざるを得ませんね。

400字というのはわずか原稿用紙1枚分です。

それに加えて、体験や見聞を元にして書けという条件がついています。

もちろん、これを守っていない答案の評価は明らかに低くなります。

本当に難問です。

800字でも大変なのに、その半分しかありません。

小論文は短ければ短いほど難しいのです。

ポイントになるキーワードを最初に探してください。

「模倣」ですね。

「まねぶ」と「まなぶ」という2つの表現の間をなんとか繋げなければいけません。

出典は松岡正剛「日本文化の核心」です。

本文

何をもって日本は「学び」とするべきなのか。

そこにどんな方針や方向や方法があるのかというと、私はいったん「世阿弥に戻ってみる」のがいいと思います。

世阿弥は「物学」と書いて「ものまね」と読ませました。

「もの真似」「物真似」ではなく「物学」です。

そういう風にしたことの意味は重大です。

世阿弥は芸能としての「ものまね」を通して「まなび」こそが「まねび」であって、「まねび」がどうすれば「まなび」になるかを追究したのです。

世阿弥は能が求める最も大切なことを「花」と言いました。

『花伝書』の花、『花鏡』の花、「時分の花」です。

花とは何なのか。

何かの盛りのことでしょうか。

世阿弥は「花」のことをしばしば「まこと」とも言いました。

「まことの花」という言い方もした。

「まこと」は文字通り「真なるもの」のことです。

アクチュアリティです。

その真を映し出すものが「花」でした。

真なるものは容易にはつかめません。

接近すらむつかしいこともある。

そこで世阿弥は「真」が外に表しているだろう「体」に注目し、そこを「まねび」なさいと言うのです。

そうすればその体は能役者の体に映って「風体」になります。

ただしそうなっていくには稽古が絶対に必要です。

稽古とは単なるリハーサルとか練習ということではありません。

稽古とは「古を稽(かんがえ)る」ということです。

「古」は真を孕んでいるかもしれない。

それは「もともと」です。

その「もともと」の「古」に風体をもって接近するために、ひたすら稽古をする。

それにはどうしても「物学」が必要です。

古の「もの」に学ぶことが必要です。

日本における「もの」はすでに述べたように、「もの」であって「霊」です。

その「もの」が語りだすのが「物・語り」です。

こうして世阿弥は「まねび」を稽古することをもって「まこと」に近づいていくことを、「まなび」としたわけです。

私はここに日本の「学び」の真骨頂があると思っています。

まねびからまことへ

あなた自身の学びはどこから始まりましたか。

型を模倣するところから、全てが始まり、やがて魂がそこに宿っていくと書かれています。

それと同じような体験をしたことがありますか。

あるいは見聞がありますか。

剣道、柔道などをはじめとした武道全般、あるいはスポーツ、芸術などの習い事の中で実感したことがあるという人もいるでしょう。

Wokandapix / Pixabay

その時に感じた「模倣」することで得たものを自分自身の真実にしていくプロセスが書ければかなりの文章になります。

ただし400字です。

いい気持になって自らの体験を書いたら、すぐにアウトです。

冷静に第三者の目で、全体を論理的に総括できなければ、意味がありません。

世阿弥のいう「時分の花」を「まことの花」にするための方法は何なのか。

それについて思い当たることはないか。

体験の中から絞り出すようにまとめた文章だけが生き残れるのです。

なんとなく自分の経験だけを書いた文はアウトでしょう。

そんなことを考えたこともない人は、門前払いを食わされたということになります。

出典が感覚的であり、哲学的な文章であるだけに、難度が高いですね。

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小論文は勉強を続けなければ、とても歯が立たない試験なのです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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