タイパ社会
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、アマチュア落語家のすい喬です。
今回はいつもとちょっと趣向をかえまして、落語の話をさせてください。
というのも昨日の新聞の記事を読んで、いろいろと考えさせられることがあったからなのです。
テーマはズバリ「タイパ社会」でした。
「コスパ」という言葉はもう完全に定着しましたね。
日常の表現として、誰もが使っています。
コスパがいいといえば、何ごとも受け入れられやすくなります。
安い値段で、良質なサービスがついてくるといえば、非常にお得感があります。
めちゃくちゃにおいしくて、量があって値段も安い。
そのうえ、内装が今風でさらにオシャレできれい。
従業員の応対もいい。
これなら満点です。
衣類でもそうですね。
安くて、デザインも洗練されている。
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お店の立地も雰囲気もステキ。
着ているだけで、なんとなく気分が爽やかになる。
これ、全部、コスパがいいの条件に当てはまっています。
その流れがさらに進むとどうなるか。
今は「タイパ」の時代です。
タイムパフォーマンス。
略して「タイパ」です。
とにかく短い時間で、早く内容がチェックでき、楽しくて面白いもの。
お笑いの世界も、まさに主流はそれなのです。
漫才のツカミ
テレビの番組では「尺」という表現をよく使います。
ネタを披露する番組などでは、芸人の時間枠のことをいいます。
かつては15分も喋れるお笑い番組などもありました。
それが今ではどんどん短くなり、その代表がつい先日放送されたM1グランプリです。
優勝するための条件は10秒に1回ずつ、笑わせることだとあります。
よくいう最初のツカミまでの時間が約6秒。
そこでお客の意識を自分たちの方向に取り込めないと、もう終わりなのだそうです。
4~5分の持ち時間で、10秒に1回ずつ笑わせるということは、どういうことなのか。
次から次へと、新しいコンテンツを連発し続けなくてはなりません。
いわゆるボケとツッコミのタイミングがよほど正確にできていないと、すぐにお客は別の方向に意識がいってしまうのです。
いわゆる素(す)に戻るという状態です。
面白い時だけ、笑う。
そして次のコンテンツを待つ。
その繰り返しなのです。
芸人の立場にしてみたら、これはものすごく苦しいです。
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世の中のリズムがそうなのだから仕方がないといわれてしまえば、それまでのことです。
漫才師はテレビだけが、主戦場というワケではありません。
東京の落語協会や落語芸術協会に所属している漫才師は、寄席にも出ます。
しかしこちらは客層が全く違うのです。
年配の観客もかなり多いです。
倍速でツカミを連発する漫才をやっても受けません。
社会の構図が演芸の笑いの質までを変化させつつあるのです。
倍速視聴の未来
膨大な情報の時代を生きていると日々、感じます。
朝、目覚めてスマホに目を通すと、数日前の記事はどこにもありません。
一見、新しく見えるコンテンツがズラリと並んでいます。
毎日、読んでいる記事の傾向にあわせて、スマホは興味や関心のある内容にそったテーマを次々と提供してくれます。
まさに溢れるような情報の中を生きなければなりません。
無駄なことに付き合っている暇はないのです。
せめて半日くらい、SNSから離れていられればと思う間もなく、次々と新しいメールがやってきます。
費用対効果という意味でいえば、これくらい現代を象徴した機器はないでしょうね。
あらゆるニーズを次々と新しいアプリが取り込んでいきます。
基本はコスパです。
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支払うコストに見合うだけの効果があるのかどうか。
ポイントはその一点だけです。
笑うことに関しても全く同様でしょう。
視聴している自分自身に対しても、コスパ意識が働きます。
短い時間で笑わせてくれる芸人に、人気が集まるのはごく自然な話です。
面白くない漫才師はコスパよりも、さらに上位の「タイパ」が悪い人種になります。
自分の持つ貴重な時間をつまらない芸にさらされることで、消費してしまったという喪失感が身体の中にあふれます。
無駄な時間を、別のことに使えば、金銭に変わったのです。
短い時間でも空いている時間にアルバイトをしませんかという、囁きがスマホから響いてきます。
考えてみれば、これほどに生き急ぐことを強いられた時代はないのかもしれません。
モモと時間どろぼう
『モモと時間どろぼう』という童話の話をきいたことがありますか。
時間どろぼうと,ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子、モモの物語です。
ミヒャエル・エンデの代表作ですね。
人間の生き方を忘れてしまっている現代の人々に捧げられた、大人のための童話です。
時間の本当の意味とは何かという哲学的な内容を含んでいます。
ここまで時間を無駄なく使えといわれてしまうと、へそまがりのぼくなどは、むしろ真逆の方向に走りたくなります。
それこそ、温泉にでもつかって、のんびりと鳥の声でも聞いていたくなるのです。
とはいえ、それもなかなか容易なことではありません。
つい先日、ぼくの入れていただいている落語の会のメンバーが、大阪池田市で行われている社会人のための落語コンクールへ出場しました。
毎年、参加者も増える一方で、大変な盛況です。
その条件の1つが制限時間です。
10分を超えると失格なのだそうです。
あらかじめ、動画などで審査した後のコンテストですら、こういう具合です。
寄席の場合は1人の持ち時間が平均15分。
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まさか10秒に1度笑わせるなどということはありません。
落語には、じっと噺を溜め込むための場面というものが必ずあります。
そこで次の笑いのためのエネルギーを蓄えるのです。
それがないと、自然な笑いは出ません。
落語はあとから、ふっとおかしくなるという一面も持っています。
心の中に少しあたたかな、柔らかい空気を入れるとでもいったらいいのでしょうか。
面白いことをいっただけの笑いは、すぐに忘れ去られます。
しかし人間性に裏打ちされた噺には、真実がありますから。
おっちょこちょいの粗忽者の噺、知ったかぶりをする人間の愚かさなどには、つい共感を抱いてしまいます。
落語そのものは、確かにタイパが悪いかもしれません。
それでもあえて、その中に飛び込もうとしている自分自身を、許したいと思う今日この頃なのです。
そんなに急いでも、人生愉快じゃありませんからね。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。