【落語家・桂枝雀】緊張の緩和を常に意識して自死を選んだ上方噺の雄

ノート

枝雀の後に枝雀なし

みなさん、こんにちは。

アマチュア落語家でブロガーのすい喬です。

コロナで完全に行き詰ってしまいました。

いつもならあちこちから声がかかるお正月の公演もキャンセルが続きました。

2月の予定も潰れ、3月もありませんでした。

4月初旬、久しぶりに高座に上がって以来、他から声がかかりません。

恒例になっている夏の落語会もはたしてできるのかどうか。

それもいまのところ不明です。

毎年お世話になっている別の場所での夏の落語会も既にキャンセルの電話がありました。

今年はずっとこんな調子でしょうかね。

ちっともパワーが出ません。

やはりお客様の前で大きな声を出すというのは大切なことなのです。

笑っていただいた時の喜びは他では味わえません。

最近、そのことがよくわかりました。

ちょっと気づくのが遅すぎたかもしれませんね。

仕方がないので、今までため込んでいたたくさんの噺家の落語を聞いています。

ぼくは基本的に江戸落語しか聞きません。

上方のはどうも肌にあわないのです。

どこがダメなのかと言われると困ります。

元々外で道行く人の足を止めて、やっていたのが大阪の落語です。

ちょっと演出が派手なんです。

それよりも飲み屋や料亭の2階あたりで、少ない粋なお客様を相手にしていた江戸落語の方がぼくの気分にはあっています。

寄席にしてもそんなに大きなキャパシティじゃないところがいいですね。

大きな違いは言葉のアクセント、イントネーション、笑いの間でしょうか

これはもうどうにもなりません。

全く江戸と上方とでは違います。

間に三味線などの音曲が入ると雰囲気がガラッとかわってしまいます。

やはり外でお客様を惹きつける芸の持っていた力なんでしょうね。

鬼才

上方の噺家で唯一聞くのがこの人です。

桂枝雀です。

上方が生んだ異色の噺家が亡くなってから、もう20年以上の歳月がたちました。

今では知らない人も多いでしょうね。

youtubeにたくさん動画がありますので、それで見たという人がいるかもしれません。

独特の表情や、間の取り方など、今でもやはり他の人の追随を許さないものがあります。

英語での落語公演や舞台、テレビでの活躍を思い出すにつけ、早すぎた死が惜しまれてならないのです。

彼は相当なペシミストであったと思われます。

笑いの中心にいると台風の目にいるのと同じで、案外静かなものなのかもしれません。

Photo by udono

突然厭世的な本来の性格が現れ、鬱状態になり、それが自死を招く結果になったと言われています。

少なくとも芸の行き詰まりというより、個人的な性格に負うところが多かったのではないでしょうか。

あまりに先が見えすぎたということもあります。

頭のいい人でした。

師匠桂米朝の弟子になった頃とはとても考えられないような芸の化け方をしました。

最初のうちは師匠と同じ間だったといいます。

当然のことですが、自分が憧れて入門するのですから、芸は師匠に似るものなのです。

このままじゃまずいと本人も思ったのでしょう。

突然の変身でした。

芸の世界では突然、人気が出たり質が変化することを化けると言います。

お客さんに受ける芸を身につけたいと必死に稽古をしたんでしょうね。

いったん稽古を始めると、他のことがなにも見えなくなったという伝説があるくらいです。

ある時期から桂米朝の門下とは思えない、ユニークな落語を次々と披露するようになりました。

笑いの哲学

彼の噺を聞いていると、いつも枕のところでちょっとだけ笑いとは何かという哲学を紹介してくれます。

最も多いのが、緊張からの解放こそが笑いの真髄だという発言です。

つまりそれまで何が起こるのか分からない緊張状態を強いられていればいるほど、その後の弛緩が笑いを生むというのです。

これはどの落語にも通用する根本的なドラマツルギーだと言えるでしょう。

観客はいつも主人公が陥る苦難を一緒に味わわなくてはいけません。

実は落語だけに限った話ではないのです。

Free-Photos / Pixabay

創作の根本に関わる秘密です。

テレビ、映画、芝居どれも全く事情は同じです。

できればその障壁は登場人物たちの正面に大きく強く立ちはだかった方がいいのです。

多くの作家達はそこで苦労をします。

最も現代的であり、なおかつリアリティーをもつ障壁を必死になって探すわけです。

それは家庭内にあることもあるでしょう。

あるいは職場、あるいは国家、警察、軍隊、学校、病院、裁判所、どんな場所でもいいのです。

障壁になるものの姿が必ずしも見えなくてもかまいません。

極端な話、時間でも宇宙の運命でもいいのです。

とにかく何かの障害を用意しなければなりません。

家庭問題に関していえば、離婚、虐待、あるいは嫁姑の確執、子育て、老人介護などなんでもいいのです。

そのことによって今まで築かれてきた家庭の中に大きな波乱の起きる必要があります。

しかもそれが圧倒的な真実味を帯びなくてはならないのです。

つまり絵に描いた餅では誰の共感を得ることもできません。

緩和への願い

アメリカ映画に嫁姑の問題が殆ど取り上げられないのは、そういう社会的な基盤がないからです。

13才になった途端嫁に出されてしまう女性の悲劇を日本で作っても誰も共感しません。

とにかくここで大切なのはそれが想像上、その社会環境の中で本当に起こりうることかということです。

廃校になる運命にある学校もいいでしょう。

突然の事故にあう飛行機でもいいです。

親の離婚が子供に大きな影を落としつつあるという展開も考えられます。

あるいは宇宙からの突然のテロや、時間軸を超えた世界からの攻撃もOKです。

とにかくあらゆる障壁を考えつくことがここでは大切なのです。

さてその重さを観客に実感させた後、そこからの解放をともに味わっていくことで意識の参加が生まれます。

その救出も必ず成功する必要はありません。

しかし人間はつらいままでは心が鬱屈してしまいがちです。

ですから興行的に成功したければ、当然緩和に向かわなくてはなりません。

桂枝雀の落語は突然ストンと落ちます。

その逆転が心地いいのです。

とにかく激しい。

最初全力でぶつかってきます。

ものすごいパワーで突然落語が始まるのです。

聞いている人はものすごく緊張します。

そのかわりオチが一気にとんでもない方向へ飛躍します。

彼の落語を試みに聞いてみてください。

「代書屋」「動物園」「幽霊の辻」「宿屋仇」「寝床」。

なんでもいいです。

よく言われることですが、泣かせるより笑せる方が数段難しいです。

それを枝雀はあっさりと無理なくやってしまう。

彼はその台風の目の中に入ってじっとお客を見ている間に、何かを見すぎてしまったのかもしれません。

あまりにもお客さんに受けたのがつらくなってしまったのでしょうか。

家にいる時はとにかく稽古ばかりしていたそうです。

ほとんど無趣味で、落語を話すこと以外にやることがなかったんでしょう。

1999年3月に大阪府吹田市の自宅で首吊り自殺を図っているところを発見されました。

意識不明の状態で病院に搬送されたものの帰らぬ人となったのです。

まだ59歳でした。

とにかく何を聞いても面白いです。

つい笑っちゃいます。

こんな噺家はもう出ないでしょう。

なんとなくそんな気がします。

彼は無鉄砲に稽古をしすぎたのかもしれません。

きっと誰よりも桎梏から解放をされたかったのでしょう。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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