【フィルターバブル】ネットに巣食うお気に入りの罠【アルゴリズム】

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赤い繭

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は繭の中で生きる人間について考えてみましょう。

かつて安部公房の『赤い繭』という短編を何度も授業でやりました。

実にシュールな作品でしたね。

覚えていますか。

現代は多様化の時代です。

自分の気に入った世界に自足していれば、それなりに心地よく生きていけます。

お気に入りに囲まれて暮らせるのです。

嫌いなものは見ない、聞かない。

それを徹底すればいいのです。

しかし、そのいずれの系列にも属せない、いや、属すことのできない人間が多くいることもまた現実です。

なぜなのか。

わたしたちはつねに人を選別しているからです。

それでは嫌われた人間たちのたまり場はどこなのか。

それぞれが、それぞれに嫌いあうという構図ですね。

共同体から拒絶されたら、人はどこへ行けばいいのか。

それが家なのです。

しかし家のない人はどうすればいいのか。

街をさまよい歩くのです。

それ以外に方法はない。

そうしているうちに夕陽に照らされた繭の中に人は自分を見い出します。

それが誰とも繋がれなくなった人間の最後の場所なのです。

現代を象徴するような話ですね。

フィルターバブル

この言葉は今から10年ほど前に出版された本のタイトルです。

インターネット活動家として知られたイーライ・パリサーという人の造語なのです。

まさに閉じこもるインターネットを象徴した表現です。

『赤い繭』の中で、人はこの家はあなたの家ですかと訊きながら、街を彷徨します。

あなたの家であるなら、わたしの家にもなりうるはずだと独自の論理を展開していくのです。

この論調は安部公房がよく作品の中で使いました。

戯曲『友達』は全てがこの論理で構成されています。

ただあの時代はまだ人は外を歩いたのです。

しかし今は仮想空間の中に生きようとします。

人々は心地のいい、情報の中だけで棲息していくのです。

この状態がさらに進むとどうなるのでしょう。

人は自分の考えと対立する観点の情報に触れることができなくなります。

望んでも望まなくても、あっという間にその状態になります。

情報の皮膜に覆われ知的孤立に陥るのです。

なぜそのようなことが起こるのか。

たいていのブラウザには、クッキー、閲覧履歴、キャッシュというシステムがあります。

これが正確にその人間の嗜好を判断するからです。

PCの場合、Cookieは共有され続けます。

ウインドウを閉じない限り、Cookieは消去されないのです。

するとどうなるのでしょうか。

ユーザー情報

インターネットの検索サイトは、怖ろしい仕組みです。

検索などというと、いかにも自分が主体的に選んでいるようですが、事実は逆です。

各ユーザーのプライベートな情報をPCは認知しています。

これがいわゆるアルゴリズムと呼ばれるものなのです。

その結果、ユーザーが見たくない情報を遮断します。

世界はその瞬間から、半分なくなるのです。

残りの半分にあなたが好きなものを並べてくれます。

つまりネットのページは人それぞれに違うのです。

同じサイトを見ていても、そこにあらわれる広告から記事まで、同じものではありません。

そのためにグーグルなどはつねにアルゴリズムを研究し続けています。

その結果どうなるのでしょうか。

自分の感覚に合わない情報は消えてしまいます。

同じテイストをもった人間がそこにあらわれ、バブルの中にそれぞれが孤立化していくのです。

そしてそのことに誰も気がつかない。

これが1番怖いですね。

この結果がつい数年前のアメリカです。

大統領の発言に対して、冷静な判断ができなくなっていきます。

いいねをする人の言っていることだけが真実になっていくのです。

政治だけではありません。

あらゆる文化活動などでも同じです。

ニュース1つでも、興味のないサイトがいつの間にか消えていくのです。

見たくないもの

AIが大活躍をする時代です。

つまり見たくないものは見なくてもいい。

そこにある事実をAI技術が隠蔽してくれます。

隠すという意識ももはやそこにはありません。

ただ自然になくなっていくのです。

サッカーと野球にしか興味がない人にとって、他のスポーツはなくてもよいのです。

さらにいえば、日々の政治も事件も何もいらない。

非常に心地のよい空間の内側へするりと導かれていきます。

まさにフィルターに包まれたバブルの中心への移動そのものです。

繭の中にひっそりと棲息しているようなものです。

残響室の内部にいる状態を想像すればいいかもしれません。

自分の意見や考えが、再び谺のように戻ってくる。

心地のいい自足した空間です。

他者との軋轢もない。

日がな対戦ゲームをしていたい人にとって、目新しいニュースは必要ありません。

世間はむしろリスクそのものです。

いいねの書き込みだけを見ていれば、一日が過ぎていくのです。

まさにこれが現代だといえるのかもしれません。

少し前にアルバイト学生らによる、ネットニュースの改ざんや、粗製濫造ぶりも話題になりました。

インターネットの時代は想像以上のスピードで、私たちの暮らしを内側から変質させています。

新聞には校閲というシステムがあります。

しかし他のニュースソースにはそれがありません。

ロシアの人々はウクライナの現状を知らないでしょう。

中国でも、反政府的なニュースの場合、すぐにネットが切られるという現象が続いています。

事実とは何か。

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難しい世の中になりました。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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