【パーティくらい難しいものはない】真実の心は細部に宿るのです

ノート

無感動

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今回はパーティについて少し書かせてください。

今まで随分とたくさんのパーティに出席してきました。

結婚式、表彰式、退職記念、送別会はもちろんのことです。

以前出版社に勤めていた頃には、ほとんど毎日夜はパーティでした。

都心の一流ホテルと呼ばれるところはほぼ全てまわりました。

ぼくの在籍していた会社そのものもパーティを主催しました。

毎年ビンゴ大会をやって、自動車を一台提供したりしたのです。

どこからか誰か偉い人がくるといっては開き、販売促進のために関係者を集めるといっては開き、退職する頃は少々不感症になっていました。

出される食事も大同小異です。

おいしいご馳走も、毎日食べていればまたかということになります。

結局模擬店のお寿司や、おそばに最後は到達するということになりました。

今から考えてみるとあの頃はなんと贅沢な暮らしをしていたことでしょう。

パーティの手順は、会場に入る直前に渡されるビールやウィスキーを飲みながら、まず知り合いを探すところから始まります。

立食パーティが大半でしたね。

どこへ行っても同じ記者仲間が必ず何人かいるので、彼らとの情報交換からスタートするのです。

しかしこれも毎日しているわけにもいきません。

仕方なく新しい人との出会いを待つということになります。

しかし何枚名刺を交換しても、それほど簡単に親しくなれるというワケではありません。

よく新年賀詞交換会とか、異業種名刺交換会なとどいうものがありますね。

正直言ってどの程度効果があるのか疑問です。

パーティは所詮パーティでしかなく、それ以上の関係をつくるということになると、もっと別のアプローチが必要になるのではないでしょうか。

パーティの達人

結局知っている人間同士が、再び顔をあわせて、久闊を叙すというレベルに落ち着いてしまいます。

それほど難しい話をするわけでもなく、なんとなく食事をしておなかがいっぱいになった頃、周囲においてある椅子に腰掛けます。

そこでひとまず休憩というところでしょうか。

もちろん隣り合った人と語ることはあるでしょうが、特に劇的な何かが起こるということはないのです。

資金調達のために開きたがる政治家の場合は全く別問題です。

実際、参加の意思を示した人が全員来るワケでもありません。

それほどに大量の料理を発注することもないのです。

実質的にはパーティ券を購入してもらい、資金が調達できればいいのです。

むしろ誰も来ない方がいいくらいのものでしょう。

geralt / Pixabay

しかしそれではあまりにも露骨なので、微妙な割合での参加ということになります。

男性ばかりのパーティではあまりにも殺風景なので、女性のコンパニオンを呼ぶこともあるでしょう。

専門の業者に依頼することもあれば、知り合いの店を通じてということもあります。

いつもお世話になっている人に声をかけられれば嫌とは言えません。

その後の付き合いも当然ありますからね。

世の中は持ちつ持たれつなのです。

なんとも面倒臭い話です。

ポイントはやはり主賓がお出ましになる時間でしょうね。

その頃合いを見計らって顔を出し、挨拶を済ませたらすぐに消える。

これがベストです。

慣れてくると、パーティの流れそのものが読めるようになります。

どうしてもわからない時は関係者にそれとなく聞いておく手もあります。

それもこれも数をこなせば自然に身につくのです。

挨拶は3分まで

人間の集中力が続くのは本当にごく短い時間だと言います。

結婚式の挨拶などでも何を言っているのかわからない人がよくいます。

俗に日本人のスピーチはまずお詫びから、外国人のスピチはまずジョークからと言われます。

ユーモアのセンスは知性と直結しています。

つねに感性を磨いておく必要があるでしょうね。

特に会社関係の人が多い式だと、ほとんど聞くに堪えません。

創業者の話から、現在の業績などをきかされて愉快なはずがありません。

だからといって友人ばかりで、妙にラフなのも入り込めないものを感じます。

人を招くというのは本当に難しいですね。

それぞれの家によって親族の数も違います。

勤め先の内容も異なっています。

その微妙な差をうまく調整するのもなかなか至難です。

コロナウィルスの影響で、結婚式もめっきり減ったと聞いています。

外国での挙式なども、ほとんどなくなってしまいました。

考えてみれば、どの規模のものが適当なのかを決めるのもなかなか大変です。

ポイントはなんといっても挨拶です。

限界は3分だそうです。

短かい中に万感の思いがこもっていればそれで十分なのです。

楽屋落ちのような拙いスピーチを聞いても、少しも楽しくありません。

幸せな未来を願うという基本の枠組みがあれば、3分で十分なのです。

詩人吉野弘の「祝婚歌」も隋分聞かされました。

そろそろ別のバージョンが欲しいところです。

本屋さんで買い求めた挨拶集からの引用はやめた方がいいです。

聞く立場から言わせてもらうと、疲れてしまいます。

ペシミスティック

普通の人間が普通に暮らしていくために、パーティは、あまり大きな効果を持つものとはいえないのではないでしょうか。

もっとも儀式は別です。

これはその背後に何らかの意味を持つ行動です。

たくさんの儀式には、きちんとプロトコルが決まっています。

その流れを正確に踏まえて進められれば、それ自身に意味があるのでしょう。

もちろん、それも不要だという考えもあります。

しかしその後のパーティはどうでしょうか。

緊張した気分を緩めるという効果はあるものの、ぼくにはそれほどに必要なものとも思えません

この考えがあまりにもペシミスティックだというのであれば、ぼくの経験がまだ浅いということなのでしょうね。

パーティというものは考えれば考えるほど難しいものです。

飲むものを持たされて長い挨拶をじっと聞き続けるくらいつらいものはありません。

いずれにせよ、パーティでエトランジェにならず心から楽しめるようになるためには、並々でない修練が大切なようです。

どのようなジャンルのものであれ、本当にその主賓に対して、心からの敬愛がない限り、パーティは義理の寄り合いになってしまいます。

参加してよかったと心から思えるようなパーティに出たいものですね。

しかしながら、そういう集いは滅多にないものです。

人間との付き合いくらいくらい難しいものはないとつくづく感じます。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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