鋭い観察眼
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『徒然草』の話をしましょう。
なんといっても日本の随筆の中ではずば抜けています。
内容が多岐にわたり、高度です。
日常生活のありふれたことを取り上げていながら、実に深い。
しばらくして、後からじわっと効いてきます。
それがこのエッセイ集の真骨頂なのです。
完成したのは鎌倉時代末期。
本名は卜部兼好(うらべのかねよし)といいます。
江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになりました。
後に出家したことから兼好法師と呼ばれるようになったのです。
彼の随筆のいくつかは必ず高校で習います。
このブログにもいくつか紹介しています。
リンクを貼っておきましょう。
暇のある時にでも読んでみてください。
『徒然草』の序文はあまりにも有名ですね。
高校時代に暗記させられたのではないでしょうか。
「つれづれなるままに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」
現代語訳のポイントは最後の一節です。
「つれづれ」というのはなんにもすることがなくて退屈な様子をいいます。
一日中、硯に向かって文章を書いていると、異常なほど狂おしい気持ちになるものだというのです。
実にユニークな表現ですね。
この文章の持つ意味を時々は思い出してみてください。
それくらい味わいのあるものだと思います。
自分の気持ちを言葉であらわすことの不思議さを綴った一節です。
柑子の木
その中にあまり長くはないのですが、なるほどそうだなとしみじみと感じさせる段があります。
いろいろと考えさせられる文章です。
実は数カ月前、たまたま外を歩いていたら、たわわに実った柑子の木を見つけたのです。
ご近所の家の庭先にあるみごとなものでした。
あんなに重い実をつけて、よく枝が折れないものですね。
ついひとついただきたくなります。
実際はすっぱくてちょっと食べられないものが多いのです。
果物屋さんで売られている蜜柑とは、かなり違います。
しかしつい手をだしたくなる。
それくらいにみごとな実でした。
柑橘系の果実はいい香りがしますね。
自然の造形とはいえ、みごとなものです。
ぼくは蜜柑の一種、柑子の木を見ると、つい『徒然草』のこの一節を思い出してしまいます。
それくらいインパクトのある文なのです。
本文と訳
神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入ること侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。
木の葉に埋もるゝ懸樋(かけひ)の雫ならでは、つゆおとなふものなし。
閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。
10月ごろに、栗栖野という所を通り過ぎて、とある山里に人を訪ねて分け入ることがありました。
遠くまで続いている苔の細道を踏み分けて行くと、わざわざもの寂しい状態にして住んでいる草庵があります。
木の葉で覆われて見えなくなっている懸樋のしづく以外には、まったく音を立てるものがありません。
閼伽棚に菊の花や紅葉が折って散らばせているのは、そうはいってもやはり住む人がいるからなのでしょう。
こんな様子で住んでいることができるのだなぁと、しみじみと思っていると、向こうの庭
に、大きな柑子の木で、枝がしなうほど実がなっているのですが、その木の周りを頑丈に
囲ってあったのは、少し興ざめして、この木がなければよかったのにと思ったことでした。
人の心
山里に踏み入った時、みごとな柑子の木を見つけたというのです。
家の佇まいも実にすばらしいものでした。
懸樋(かけひ)というのは山からひいてくる水です。
閼伽棚(あかだな)は仏に供える水や花を置く棚です。
これがやがて家の中に入り、床の間に変形していったのです。
実に閑静な場所にきちんと建てられた家でした。
さぞかし風流な人が住んでいるのだろうと兼好は勝手に想像したのです。
ところがその木の周囲に囲いがしてありました。
これを見て、それまでの感嘆もどこへやら。
完全に興ざめをして、この木がなかったならば、こんな主人の貪欲な心をみることはなかったのにと残念だったのです。
「この木なからましかば」の「ましかば」というのは仮定法です。
なかったならよかったのにという気分でしょうか。
囲いがあることで、趣きを知り風雅に暮らしている人の姿を想像したのも束の間のことになってしまいました。
人の欲望の際限なさを知ったのでしょう。
彼のがっかりした表情が目に見えるようです。
これさえなければ、こんないやな思いはしないですんだのにという場面です。
子供を叱る時の親の表情をみていると、普段の顔の裏にこれほどの厳しさをもっているのかとつい驚かされます。
どうしてあんなにきつい言葉を吐くのか。
不思議の1つです。
きっと夫婦喧嘩もあの調子でやっているんでしょうね。
他人が聞いているなどということは全く考えていないに違いありません。
従業員をお客の前で叱るなどというのも最悪です。
接客商売の難しさそのものです。
もっと卑近な例で言えば、ゴミの捨て方一つにも、その人間の心が出るものです。
挨拶の仕方もしかりです。
朝、不機嫌な顔をされて挨拶を返してくれないと、この人にはどんな不満があるのだろうとつい考えてしまいます。
人間は死ぬまで煩悩から逃れられないものなんでしょうか。
悲しい気もしてきます。
柑子の木に囲いをするのと同じことは、あらゆる場面に出てきます。
それもほんのちょっとした行動に見え隠れするのです。
だから怖い。
兼好法師が見逃さなかったのは、そういう人間の浅ましさだったのでしょう。
反省することばかりです。
『徒然草』は怖い本だとしみじみ思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。