【日本語の難しさ】象は鼻が長いという表現は難解千万です

学び

日本語の難しさ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はちょっとだけ日本語の話をさせてください。

以前、外国人の生徒が多い高校に勤務していたことがあります。

日本語があまり得意ではない生徒向けに少人数での授業を担当しました。

難問はなんといっても日本語の読解です。

古文などは特に厄介でした。

数人単位の授業でしたので、なんとかやり切ったというところです。

日本語を外国人に教えるということは本当に至難の業です。

外国人に多く囲まれた環境にいると、なんと日本語は面倒臭い言葉なのかとしみじみ思います。

入学試験も英語だけでいい学校だったのです。

全く日本語の能力は必要ありません。

しかし日本の高校ですから、当然現地語である日本語が基本の授業になります。

外国人の先生が担当するのは主に英語だけです。

それ以外はすべて日本語での授業でした。

毎日彼らと関わりをもったせいか、日本語の複雑さを強く感じるようになりました。

国語の教師はみな、日本語担当でもあったのです。

専門の先生も何人かいて、いろいろと教えてもらうことも多かったです。

基本は日本人が英語を学習するのと同じです。

言葉を覚えるのは慣れもありますが、なんといっても文法が基本ですね。

「てにをは」から1つ1つ順番にやっていかなくてはなりません。

日本語を全く理解できない生徒に基礎から教えるという仕事はとにかく大変です。

特別のプログラムを学んだ人にしかできないということもよくわかりました。

形容詞は「イ形容詞」、形容動詞は「ナ形容詞」という呼び方に替えます。

形容動詞なんて、英語にはありませんからね。

ぼくが教えたのは少しは日本語が話せ理解できる生徒達でした。

それでも実際に教えていると、言葉というものはすごい力をもっているものだと感心することばかりでした。

コミュニケーションツール

たとえば韓国人の生徒達が突然ハングルで友達どうし話し始めたとします。

するとその瞬間から全く教師とコミュニケーションの糸がとぎれてしまうのです。

ぼくには全く彼らの話の内容がわかりません。

なかには数カ国語を話す生徒もいます。

先生より流暢に英語を操る生徒もいるのです。

完全に英語だけで暮らしてきた彼らにとっては、ある意味当たり前のことです。

しかしその言葉の背景にある知識の習得に関しては、先生の方が数段上なのです。

複雑な内容を吟味していると、やはり生徒には限界があります。

それも当然のことでしょう。

難解な単語や、表現などは先生に教えてもらうということになるのです。

そうした環境の中で日本語の教材を扱うことは想像以上に大変でした。

翌年、母国へ戻ってしまう生徒もなかには当然います。

彼らに向かって日本語の文法を教えるというのも、なかなか骨の折れる仕事です。

よほど根気よくていねいにやらないと、日本語が嫌いになってしまう可能性もあります。

文語動詞になると、9種類の活用パターンがあります。

それぞれがどのような活用変化をするのかということを覚えて、さてどの程度の意味を持つのか。

さらに助動詞の意味や接続となると、これはもう暗号を解読していくようなものです。

日本人でも高校に入ってすぐ習う文語文法で挫折する人はたくさんいます。

外国人なら、なおさらのことでしょう。

しかし幸いにして彼らは若いのです。

ものすごい吸収力で次々と内容を制覇していくのには驚きました。

「は」と「が」

日本語の勉強を続けている生徒達はみな「は」と「が」の使い方には苦しんでいるようでしたね。

日本人なら絶対に間違わないシーンでも、彼らにとっては難しいのです。

試しにこの記事のタイトルにした「象は鼻が長い』の助詞の部分を取り替えてみます。

「は」と「が」をかえただけです。

「象が鼻は長い」と表現したらどうなるか。

やはりへんだと感じませんか。

「は」と「が」は主語を形作る根本の助詞です。

格助詞と呼ばれています。

このたった1文字がつくだけで、文章が意味を持ち始めるのです。

本当に不思議な言葉です。

しかし普通の日本人はそんなことも考えません。

当たり前のように使っています。

だからかえって外国人には難しいのです。

それは「は」と「が」の根本的な特質に関わることだからなのです。

表記法からいえば「こんにちは」なども「こんにちわ」ではありません。

日本人でもよく間違える人がいます。

なぜなら、「今日は…」の後半が省略された形だからなのです。

必ず「こんにちは」でなければなりません。

どこの国の言葉だって難しいといえば、それは難しいのです。

なかには発音がとんでもない言葉もあります。

しかし日本語の難しさはそうしたものとまた違う関係性の構築をどうするのかという難しさなのです。

本当の主語はどれか

「が」と「は」はそれぞれ主語になるといっても性質が微妙に違います。

「私は山田です」と「私が山田です」は明らかにニュアンスの差がありますね。

普通、最初はどちらを使いますか。

最初の場面では「私は山田です」とするはずです。

しかし次の場面では「私が今、紹介された山田なのです」という意味をこめて「私が山田です」といいます。

これが日本語の難しさなのです。

この違いは日本人なら直感的に理解できます。

象は鼻が長い

「象は鼻が長い」という表現ではどれが本当の主語なのでしょうか。

「象が鼻は長い」という表現の妙な感じはどこからくるのでしょうか。

少し考えてみてください。

理由を示す「~から」「~ので」の違いなども外国人にはなかなか理解できません。

①「先生が教えてくれましたから知っています」

②「先生が教えてくれましたので知っています」

どちらの文がよく練れていますか。

当然②の文ですね。

「~から」と言うと、教えたのが悪い、余計なお節介だというニュアンスを持ってしまいます。

しかし用法には何の差もありません。

同じように敬語を教え始めると、まるでワケがわからなくなるようです。

日本人の序列意識は言葉の中にふんだんに垣間見えます。

古文でももっとも学習上困難なのは敬語です。

特に謙譲と尊敬の入り交じった二方向敬語などというものは、まさに芸術そのもののように思われてなりません。

こんな複雑な人間関係の中で生きている日本人というのは、ちょっと特別な存在なのかなと思う時もありました。

英語ならそんなことを気にすることがないのです。

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これでは人との付き合い方に大きな意識の隔たりがうまれて当然ですよね。

とにかく日本語は厄介です。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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