夏の風物詩
みなさん、こんにちは。
アマチュア落語家でブロガーのすい喬です。
今年はコロナの影響で、アマチュアといえども高座数がめっきりと減りました。
1月から3月まではいつも通りでした。
ところが4月に入ってからバッタリ。
オファーがまったくなくなりました。
不思議なもので、高座がなくなると、お稽古にも身が入りません。
いくらやっても披露する場所がないのです。
幸いプロの噺家ではないので、食べられないということはありません。
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だからダメなんですかね。
必死にやろうという危機感がどうしても欠けちゃいます。
我ながら情けないです。
こういう時に粉骨砕身して稽古に励むくらいじゃなければ、一人前にはなれません。
芸というのはすべからくそういうもんです。
しかし稽古をしたからといってうまくなるのかといえば、これも疑問です。
六代目三遊亭圓生がいい例ですね。
幼い頃から義太夫をやり、やがて喉をダメにして噺家に転身。
芸は上手でレパートリーもたくさんありました。
しかし人気は出ません。
やっと聞けるようになったねと言われたのは満州から帰ってきてからです。
古今亭志ん生と2人で満州を転々としながら、死ぬか生きるかの瀬戸際までいきました。
やっとのことで日本に戻ってきた頃から、噺にリアリティが出てきたのです。
年齢も重ねていました。
しかしそれだけじゃない。
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戦地での苦労が身体の中に沁み込んだのでしょうね。
それ以外には考えられません。
何を見たのか。
人の生き死にです。
それでも立ち上がろうとする人の強さと脆さでしょうか。
その後、圓生は怪談噺をよくやりました。
女を描く
昔から幽霊は女と相場が決まっています。
魂魄この世にとどまりて、恨みはらさでおくべきかなどと手を陰の形にして、恨めしそうにあらわれるのです。
圓生の落語には女性がたくさん登場します。
長屋住まいの女から、武家の女まで。
その生きる哀しみを背負って幽霊になるのです。
源氏物語などには生き霊が登場します。
しかし一般的な幽霊はみな死んでからあらわれるようです。
それも全て女であるというのはなぜなんでしょうか。
それだけ女の人というのは、嫉妬の感情や、恨みというものに近いと考えられてきたのでしょうか
昔は我慢を強いられる場面が想像以上に多かったに違いありません。
男にも似たような気分は濃厚にあったでしょうが、なぜか幽霊となると、女と相場が決まっています。
ここ数年少しまとめて怪談噺を読んだり、聞いたりしました。
この分野ではなんといっても江戸時代の噺家、三遊亭圓朝の右にでるものはいません。
ご存知ですか。
現在多く演じられている作品の大半は圓朝が創作したものばかりです。
落語の始祖として多くの噺家から敬愛を抱かれている人なのです。
代表作は何か
代表作には『牡丹灯篭』や『怪談乳房榎』さらには『真景累ケ淵』などがあります。
どれも異様な話ばかりですが、長さからいえば、やはり『真景累ケ淵』でしょうか。
これは長いです。
2018年に亡くなられた桂歌丸師匠が『口伝圓朝怪談噺』というタイトルで全体を7話にまとめています。
このやり方がこれからのスタンダードになるのかもしれません。
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六代目圓生師のはもっと長いです。
昔はテレビもなく、同じ町内にある寄席に通うのが娯楽の1つでした。
毎晩少しずつ語りながら、人を呼ぶには長い続きものの怪談噺がもってこいだったのです。
あらすじは実に複雑で、因果応報とでも呼べばいいのでしょうか。
次々と人の怨念が重なっていくという実に怖い作品です。
タイトルの「真景」というのは「神経」をもじったものだと言われています。
つまり幽霊などいうものは存在せず、すべては神経のなせる業だというのです。
新吉が豊志賀という富本節の女師匠と、偶然暮らし始めるところから話は始まります。
しかし別にいい女ができ、彼女が邪魔になるのです。
ここから話は一気に展開していきます。
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豊志賀の死の一節はよく演じられるところです。
富本節の師匠と若い男新吉との間に、お久という女が絡むという筋です。
何が起こっても不思議ではありません。
やがて豊志賀の怨念が、お久の上にのしかかっていくという長編の発端です。
きれいな牡丹灯篭
個人的には牡丹灯篭の方がストーリーが巧みで面白いと思います。
比較的にやりやすいのです。
というのも幽霊がでてくる噺としては血が流れません。
高座で話していても、お客にあまり嫌な感情を抱かせなくて済むのです。
これも長い噺です。
普通は第2話の「お札はがし」あたりまでを口演することが多いようです。
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ぼくもそこまではやります。
元々は敵討ちの話と幽霊の出てくるところが交互に進みます。
しかし今ではほとんど敵討ちの方はやりません。
これも時代でしょうね。
萩原新三郎という浪人者と武家の令嬢お露との間に起こる恋愛を元にしたところが発端です。
新三郎に恋焦がれて亡くなってしまうというお露が哀れでなりません。
既に死者であるお露が、夜ごと新三郞の元を訪ねるシーンは実にきれいですね。
夏の深夜、牡丹の模様のついた灯篭を手に持って、新三郎の家を訪ねます。
カランコロンと駒下駄の音がするシーンが身に沁みます。
最初は幽霊とも知らずに一夜を明かし、やがて手相見に死相があらわれていると断言されます。
彼女を一歩も家に入れないために用意した、効験あらたかなお札をはがす段は何度聞いても面白いです。
その後 新三郎の下働き、伴蔵とお峰夫婦が護身のための金無垢でできた海音如来を、新三郞を騙して手にいれます。
このあたりから話はますます面白くなり、やがてお峰の暗殺にいたるのです。
主筋にからむ因果話が栗橋宿にまで及び、やくざな医者、山本志丈の登場とあわせて、どこまでも飽きさせません。
元をたどっていくと上田秋成などの作品にもぶつかるといいます。
彼の小説『雨月物語』には怨霊が跋扈していますからね。
『浅茅が宿』「白峯』などは時に授業で扱ったりもします。
個人的には「怪談乳房榎」が好きですね。
これも稽古だけはしたものの、まだ高座にかけたことはありません。
男の幽霊
ところで男の幽霊はいないのでしょうか。
試みに少し探してみました。
するとなぜか落語にはかなり登場します。
しかしこれがいずれも間抜けな幽霊ばかりで、実に愛嬌があるのです。
笑いのとれる幽霊ばかりです。
『へっつい幽霊』などという噺は、まさに幽霊と人間が丁半博打をするというとぼけた内容のものです。
『死神』などという人間の死生観に触れた妙な幽霊も登場します。
ぼくが一番好きなのは、やはり『不動坊火焔』ですね。
これは今までに何度も高座にかけました。
30分以上はかかります。
講釈師の男が、巡業先でなぜか急死してしまうのです。
そこで残った借金を支払うかわりに、寡婦となったお滝さんをもらうという男が、この不動坊火焔の幽霊と言い争うというとぼけた噺です。
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美人のお滝さんをとられた同じ長屋の連中が、近所に住んでいる噺家を不動坊火焔の幽霊に仕立てて、さんざんにもてあそぶはずでした。
ところが反対に悪態をつかれて、とんでもない目にあうという愉快な展開です。
こうしてみると、幽霊と男はどうもあまり縁がなさそうですね。
『お菊の皿』などという噺ではちょっと女の幽霊も笑いをとったりしますけど。
暇があったら是非、聞いてみてください。
きっと人生に新しい表情が出てくると思います。
最後までおつきあいいただきありがとうございました。