【同調圧力】空気を読むのが苦手な人は長生きできないというリアル

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同調するのも難しい

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

脳科学者、中野信子さんの『空気を読む脳』を図書館にリクエストしたのは隋分前のことです。

いまだに順番が回ってきません。

何冊もあるらしいんですけど、借りたい人の数も多いようです。

どんなことが書いてあるのか、あちこちのサイトを覗いてはみましたが、やっぱりよくわかりません。

もう少し待つしか手がなさそうです。

仕方がありませんね。

「空気を読む」っていったい何なのでしょう。

その場の雰囲気から状況を推察することをさす言葉のようです。

自分が何をするべきなのか、何をするべきではないのかを考えて行動したりすることと本には書いてあります。

相手に願うことと、してほしくないのかを憶測して判断したりするのは難しいですね。

噂によれば、空気を読むために神経伝達物質のセロトニンがあちこちに運ばれ、脳内に作用するとか。

TeroVesalainen / Pixabay

日本人はもともと不安感がとても強い民族なのです。

自分の利益を失ってでも、不正をした相手に制裁を加えたいという気持ちも世界一強い民族らしいです。

そんなこと言われても自分ではよくわかりませんけどね。

人と違った恰好をするというのは確かに不安です。

その意味で制服というのはよくできてます。

自由服の高校でも、なんちゃって制服を着ている生徒も結構見かけます。

制服のデザインで学校を決めるなどという話を聞くと、なんとなくヘンな感じがします。

これも日本人に特有な現象なのでしょうか。

醜いやり方で勝つよりも美しく散って負けるほうを評価する人が多いのも、この国の特徴です。

不倫や失言など有名人の言動にちょっとでも不正の匂いを嗅ぎ取るとみんなで激しくバッシングしたりします。

さらにそういう空気を読んで同調しない人を仲間はずれにするのです。

同調圧力の強さは半端じゃありません。

実に厄介な民族です。

適度な間隔

空気を読むというのはいかにも日本人らしい表現ですね。

多くの似た感受性をもった人間が、一つの島に生きていれば、互いの間隔をうまくとらなければ息苦しい状況になってしまいます。

だからこその「空気」なのでしょう。

「阿吽」という言葉の響きや、「卒啄同時」という表現を聞いていると、なるほど日本人は特殊な環境の中にいるんだなとあらためて感じます。

suju / Pixabay

阿吽の呼吸というのは聞いたことがありますよね。

卒啄同時という言葉はご存知ですか。

鳥の雛が卵を内側からつつくのと、親鳥が卵を外からつつくのが同時ということです。

まさに賢明な人は常に他者との距離をはかり、その中で場の空気を読み取ることに長けているということなのでしょう。

それができなければ、集団のリーダーになることは難しいかもしれません。

と同時に出過ぎる杭は打たれないという言葉もあります。

ただ人間関係だけに汲々としている人の脇で、我が道を行くというタイプの人もいることにはいます。

しかし一度転ぶと、案外奈落は近いかもしれません。

相手の面子を大切にし、謙虚で、常に場の空気を読み、そして主張すべき時は、毅然として自己の信念を述べる。

そのようなことができれば、この国では十分に生きていくことができるのでしょう。

しかしそのなんと難しいこと。

多くの日本人論の中に出てくる空気論は面白いものです。

だがあまりにもそれだけを前面にだすと、やがて息苦しさが高じる危険も孕んでるような気がします。

さらにあえて言えば、「事実」に対する感度の鈍さだけは、どんな時でも許されることではないと感じます。

ご理解とご協力

毎朝、電車の中で聞かされる文句にこれがありますね。

だいたい車内の混雑した状態の中であれをするなこれをするなという時に使われる表現です。

カバンを前に抱いてくれとか、電話をするなとか、発車直前の乗り降りはやめてくれとかいうお知らせです。

最後に必ず乗客の皆様のご理解とご協力をお願いしますと車掌が呟きます。

勿論とりたてて文句はありません。

アナウンスの内容は至極まともなものだからです。

車内で電話などされるのは誠に迷惑千万です。

それは全くその通りなのです。

しかしどうもこの「ご理解」「ご協力」の2字には愛着が持てないのも事実です。

確かに理解をして、協力をしなければならないのはもっともです。

反対はできません。

それでもこの言葉にはどこか有無を言わせぬ圧力のようなものを感じます。

慇懃に呟いているだけに、かえってそう感じるのかもしれません。

これくらいのことは理解できるだろう。

だったら必ず協力しろよと背後から囁かれているような気さえするのです。

これはある種の僻みかもしれません。

そんなことは毛頭考えず、ただ挨拶の一環として喋っているだけに過ぎないのでしょう。

まさにマニュアル通りなのです。

しかしこの表現の出てくる場面を思い出すと、これでも不平があるのかという時にだけ、使われているような気がして仕方がありません。

これは考えすぎなのでしょうか。

世の中には理解も協力もできないことが、山のようにあるような気がして仕方がない昨今です。

あえて言えば、言葉の暴力に近いような気もします。

しかしこれもあえていえば、空気を読むということなのでしょう。

マスクをして、何も喋らずひたすらスマホを見続ける乗客に向かってご理解とご協力の連呼はつらいです。

ちょっと怖い気もしますね。

ごきげんな人

しかしいつもごきげんな人というのもいます。

ごきげんな人についてある医者が書いている記事を読みました。

機嫌のいい人というのは基本的に長命なのだそうです。

これだけストレスの多い時代に、いつもきげん良くいるためには、ある種の才能が必要なのかもしれません。

笑っていると、他人が集まってきます。

楽しそうだからです。

すると笑っていた本人は以前より楽しさが倍増するそうです。

性格まで自然に明るくなっていくとか。

結局人間とは他人の目に映った自分を見て生きる脳髄なのかもしれません。

他者の目にどのようにうつるのか。

それが実は一番大切なことでもあるのです。

太宰治の小説『斜陽』にはいくつもの独白が出てきます。

その中で一番有名なのは、主人公の遺書です。

そこにはいつもはおまえは道化のようだと言っていた人々が、主人公が本当に苦しんでいる姿を見て、

どうせ苦しいふりをしているだけだと呟いたということが書かれています。

道化ということを人一倍意識していた太宰治にははっきりと見えた風景なのでしょう。

人間の本当の姿は他人には結局認知できないものなのかもしれません。

しかしでは自分ではわかっているのでしょうか。

それも曖昧な要素が多いのです。

そこに複雑な人間の本質があります。

とすれば少しでも空気を読み、ごきげんな状態でいる時間を長く持つことで、他人との関係を円滑にするしかないのでしょうか。

医学的にいうと、気むずかしい人とごきげんな人とでは寿命が平均10年違うのだそうです。

楽天的というのとも異なりますが、どこか「ごきげん」という表現には今の時代を象徴しているある種の本質的な生き難さをも感じます。

何かといえば、空気を読めと言われ続けている現代の社会です。

そこからはじき出されたら、もう生きる道はないのかもしれません。

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みなさんはどのように考えますか。

最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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