【野ざらし】1人で狂気と妄想に駆られて骨を釣るという不思議な落語

落語

野ざらし

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

落語を稽古していると、楽しい時とつらい時が交互にやってきます。

最初の頃はもっぱら楽しいですね。

うろ覚えで話しているので不安はありますが、とても新鮮です。

なんだかうきうきしてきます。

しかししばらく同じ噺をしているうちに不安の方が大きくなってくるものです。

だんだん噺が腹にはいってくると、それほどミスをしなくなります。

逆に自分のしている落語が本当に面白いのかどうか、わからなくなっていくのです。

一種、無限ループの中に入ったような気分とでもいえばいいのでしょうか。

仄暗い道を1人で歩いているような気分です。

あんまり楽しくなくなるのは、このあたりからですね。

さらにそれを超えるとちょっと飽きてきます。

自分の芸が突き当る場所なのかもしれません

間が似てくるので、先に伸びているような気がしないのです。

その期間が数か月のこともあれば、数年のこともあります。

しばらく寝かせておくかという発想も出てきます。

発酵させるのです。

それでダメならお蔵入りになります。

そういう噺がいくつあることか。

考えているとなんだか悲しくなってきます。

柳家小三治

小三治師匠が亡くなって1か月ほどが経ちました。

寂しさを感じますね。

先日もずっと噺を聞きながら、今ならどれをやってみたいかと考えていました。

その時に1番自分でやりたくなったのが「野ざらし」です。

これは1人で完全に狂気の中に入っていく噺なので、とても難しいのです。

そんなことがあるワケないだろとお客に思われたら、もうそこでおしまいです。

こういう類の噺は最近あまり寄席でもかかりません。

風呂屋の番台にあがって1人で妄想にふける若旦那の噺があります。

「湯屋番」というのです。

これなどもよほど自然にやらないと、あそこまでおかしなヤツはいないよと思われたらそこでアウトなのです。

Photo by tablexxnx

そういう意味でいえば、自分が死んだと錯覚した男が自分の死骸を抱くという妙な噺もあります。

「粗忽長屋」です。

これになどもそんな馬鹿で粗忽な人間がいるはずがないと思われた瞬間に終わりなのです。

それだけにリアリティを最後まで持続するエネルギーが要求されます。

小三治師匠もよく粗忽長屋をやってましたね。

面白かったです。

さてそんなワケで、先週の落語会が終わってから今は「野ざらし」1本です。

まだ楽しいですね。

始めたばかりです。

最初に覚えたのは数年前です。

ずっと寝続けてました。

小三治師匠がなくなって目を覚ましたというところでしょうか。

この噺のオチは今やってもあまり面白くありません。

そこで途中で切ってしまうケースがほとんどですね。

あらすじ

ある夜、八っつあんが長屋で寝ていると、隣の部屋から女の人の声が聞こえてきます。

浪人、尾形清十郎の部屋です。

婦人は好かぬと言っていたのになぜなのか。

つい商売道具の鑿で壁に穴をあけ、覗いてしまいました。

なんと若い女性だったのです。

翌朝、真相をただします。

浪人はとぼけてみせたものの壁の穴を見て観念します。

あの女はこの世のものではないと告げるのです。

向島で魚釣りをした帰りに、野ざらしの頭蓋骨を見つけ、哀れに思ってそれに酒を振りかけ、手向けの一句を詠んだ話をします。

するとその骨の幽霊がお礼に来てくれたというのです。

Photo by Norisa1

それを聞いた八っつあんは幽霊でもなんでも、あんないい女ならというワケで、浪人の釣り道具を借り、酒を買って向島へ向かいます。

ここまでが前段です。

後半は完全に八っつあんの狂気の出番です。

橋の上から、岸に居並ぶ釣り客を見て、骨釣りの先客で満ちていると勘違いします。

骨は釣れたかと釣り客に叫びかけます。

ここから八っつあんは釣り糸を垂らしながら、「サイサイ節」をうなるのです。

ここが見せ場ですね。

やっていて1番難しく楽しいシーンです。

まさに1人妄想の独壇場です。

鐘が ボンとなりゃあサ
上げ潮 南サ
カラスがパッと出りゃ コラサノサ
骨(こつ)がある サーイサイ
そのまた骨にサ
酒をば かけてサ
骨がべべ(=着物)着て コラサノサ
礼に来る サーイサイ
ソラ スチャラカチャンたらスチャラカチャン

そのうちに、自分の鼻に釣り針を引っかけ、「こんなものが付いてるからいけねぇんだ。取っちまえ」と、釣り針を川に放り込んでしまう。

ここで噺を切るケースが大半です。

狂気

これ以降のところは今と昔の風習の違いなどもあり、サゲが理解しにくいこともあってやりません。

お読みになっていてどう感じましたか。

小三治は味がありましたね。

1人で年増の女といちゃいちゃするシーンなどは実に楽しそうでした。

こういう噺はやっていて自分も楽しまないと損ですね。

ただ落語を先に進めるだけでなく、そこで時々立ちどまるくらいのゆとりが必要です。

真面目にやっても少しも面白くありません。

少しくらいセリフを間違えても、八っつあんの心情をきちんと理解していれば、お客は笑ってくれると思います。

1人者のところにやってきた骨がすねたりつねったりするところも愉快です。

女性のもっている柔らかさや、愛情の表現ができると、ぐっとリアリティが出てくるのではないでしょうか。

おもいっきり明るく演じることがポイントだと思います。

明日からまたお稽古をして、とにかくセリフを腹に入れなくてはなりません。

別のことを考えていてもセリフが出てくるくらいにならなければ、お客の前で披露などできないものなのです。

苦しいけれど面白い。

それが落語なんじゃないでしょうか。

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今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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