民話の風味
みなさん、こんちには。
アマチュア落語家、すい喬です。
今回はぼくの好きな落語を紹介させてもらいます。
実はまだ自分のレパートリーには入っていません。
1度も高座にかけたことがないのです。
いつかやってみたいマイナーな噺です。
内容はこれといってものすごいというものではありません。
しかし多くの噺の中にこういうのが1つくらいはあってもいいなと思います。
おばあちゃんがうとうとしている子供の傍らで話す昔話にも似ています。
元々は講談からきたそうです。
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聞いてみると、そんな印象のする地噺に近いものです。
もちろん、会話もたくさん出てきますが、どこが面白いというのではありません。
聞いた後に、心がほっこりとするのです。
それがなんとも嬉しいので、また聞いてしまいます。
でも不思議と自分でやろうとは思いません。
なにか一線を越えてはいけないような、プロの匂いがします。
本当に噺のうまい名人がさりげなく語ってくれると、いい気持ちになれるのです。
落語にはかなり派手な演出のものもたくさんあります。
しかし一方ではごく地味な、プロがいうところの儲からない噺もあります。
それでいて、どこか心に残るのです。
その一つがぼくにとってはこの「雁風呂」です。
上方では桂米朝が、東京では六代目三遊亭圓生が好んでやりました。
東北の民話に題材をとった人情噺です。
あらすじ
秋にやってくる雁は、木のかけらを口にくわえ、途中、疲れるとそれを海面に浮かべて休息をとると信じられていました。
日本までたどり着くと、一木(ひとき)の松にとまったかれらは、それを浜辺に落とします。
やがて春になり、再び木片をくわえて海を渡るのです。
海岸にまだ残っていると、それは日本で死んだ雁が残していった木ぎれということになります。
そこで哀れな雁を供養するために、村人は流れ者などに木片で焚いた風呂を振る舞ったというのです。
どうでしょう。
日本にやってくる時に一本の木を加えて飛んでくる雁。
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そして疲れをいやすために、それを海の上に浮かべ、しばらく休む渡り鳥。
この構図にぼくは少しうっとりしてしまいます。
津軽地方に古くからある民話だそうです。
しかし本当にそんなことがあったという事実はないとか。
でもなんとなく、そういう渡り鳥がいてもいいような気にさせられるのです。
詩情があるというのでしょうか。
その姿を想像するだけで、遠い地方からわざわざ飛んできた鳥たちのことを考えてしまうのです。
海面にゆらゆらと揺れながら、疲れを癒やす鳥の様子。
それも目の前に浮かびます。
かわいそうなのはこの先です。
その木ぎれが波にのって海岸に寄せてくるのです。
皆、再び加えて日本を去るのですから、残っているということは、帰れなくなった鳥たちの残骸ということになるワケです。
日本で死んでしまった鳥が残していった木ぎれということになります。
そこに想像力が働くというところにも詩を感じます。
そしてその木っ端を燃やして風呂をたてます。
それを哀れな雁を供養するため、流れ者達にふるまうのです。
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今のように簡単に風呂が沸かせる時代ではありません。
毎日、入浴するなどということは夢のまた夢でした。
雁供養という呼び名も残っています。
供養するという思想
その大切な風呂を流れ者達にふるまうというところが、ぼくは好きです。
この噺の1番やさしいいいところです。
ここを聞くと、いつもいい気持ちになります。
本当にこういうことがあったのかどうか。
そんなことはどうでもいいのかもしれません。
しかしたとえ話にもせよ、こういう想像力が働くということそのものが嬉しいのです。
なぜこの噺が残っているのか。
それは全くの偶然です。
普通なら、これで民話として完結してしまいます。
ところが昔の人はそこにさまざまな想像力を働かせました。
それが水戸黄門と大阪町人、淀谷辰五郎との出会いに結びつけられました。
まさにここからが講談になった所以です。
水戸黄門が江戸から上方へのお忍び旅の道中の話です。
実にユニークな着想です。
昼食に訪れた掛川宿の飯屋に「松に雁」の屏風がありました。
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松の下に何やら木の束が積んである不思議な絵です。
土佐将監光信と落款はあったものの、松には鶴、雁には月を描くのが普通です。
おそらく偽物だということになりました。
しかし黄門の目には確かに光信に見えます。
それでも松に雁という図の意味がよく分かりません。
そこへ江戸へ向かう二人連れの商人が到着し、昼食を注文します。
ふと旦那の方が屏風に眼をやり、これは結構なものを見せて貰った、光信の絵だというのです。
供の方もすぐに「雁風呂」だと見抜きました。
しかしこの絵が光信だとわかる人はいないだろうと言いあっています。
黄門は、この商人に絵解きを依頼しました。
雁風呂の意味
最初、遠慮していた商人もついに「雁風呂」の話を解説することになりました。
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黄門はただの商人ではないと感じ、名を訊ねます。
すると大坂で知らないものはいない、二代目淀屋辰五郎であると身を明かすのです。
かつて淀屋橋を造ったりしたものの、あまりにも奢った暮らしに家を取り潰されたのでした。
以前貸した金を幾らかでも返して貰える様にお願いして歩いているところだというのです。
ところがかつての大名達は借金を返済してもくれません。
実は多額の借財に困った彼らが権力の力で淀屋を潰したというのが本当のところだったのです。
黄門は柳沢美濃守の三千両を取り立てるべく、一筆したためます。
便宜を図ってくれたのです。
書き付けがあれば、これで取りっぱぐれるということはありません。
黄門が出発した後、雁風呂の講釈をしただけで、諦めていた貸し金が取れると供の者が喜びます。
「そらそうや、雁(かりがね)の講釈をしたんや」と淀谷辰五郎。
これが噺のオチです。
津軽の民話、黄門水戸光圀、大阪町人、淀谷辰五郎との出会いとからめて一つの噺にしたのが「雁風呂」です。
親子や夫婦の愛情が出てくるようないわゆる人情噺ではありません。
いつかやりたいと思ってはいるものの、さてかなうものかどうか。
最後のオチが掛け詞のシャレだけというのは、少しもったいないような気もします。
もう少し味のあるオチはならなかったでしょうか。
元々大阪の話なので、関西弁で淀谷辰五郎をやる噺家が多いようです。
今では柳家小満ん師匠が時々おやりになっています。
一度、お聞きになってみてはいかがでしょうか。
派手なところは全くありませんが、しみじみと語ると、噺というものはいいものだなと感じます。
今回、この記事を書きながら、ちょっと試しにやってみようかなという気持ちになりました。
数ヶ月はかかると思いますが、チャレンジしてみます。
最後までお読みいただきありがとうございました。