【コミュニティ力】溜めの存在が貧困とおひとりさまを助けるのだ

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他者と生きる

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今回は少し「溜めの存在」について考えてみます。

湯浅誠という人についてはご存知ですよね。

かつて日比谷公園で年越し派遣村を実施した人です。

NPOの事務局長をしながら、マスコミにもよく登場しています。

貧困の問題に関心を持ち続けている活動家です。

ワーキングプアという言葉がマスコミに登場して久しいです。

あるいはネットカフェ難民などという言葉もあります。

つい最近もテレビのニュースに、アパートに住み自分が作った食事をとって糖尿病をなおしたいという人が出ていました。

弁護士などが親身に相談にのっていましたが、はたしてうまくいったのでしょうか。

自己責任という言葉ばかりが時代の先端を走っています。

この表現を使うと、つまりそうした境遇に至った人には、なにかしらの欠陥があると考えがちなのです。

だから自分で責任をとればいいと言われると、ついそんな気分にもなります。

しかし現実はそれほどに単純な話ではありません。

学校の現場にいると、この生徒はどうしてもこうならざるを得なかったというケースを多々見ます。

親ならば子供に愛情を注いできちんと育てるはずだというのは一種の幻想です。

実際には食事の世話もせず、外出を繰り返し遊び呆けている親もいます。

いわゆるニグレクトと呼ばれるパターンです。

児童相談所などにもちこまれる内容は毎年深刻度を増しているのです。

生まれた時から苦しい状態にいる人の存在にまで通常は想像が及びません。

学校を無事に卒業できない子供たちが実際は多数います。

自助の苦しさ

大人の立場からも似たようなことがあります。

普通ならあまりに困ったら誰かに助けを求めなくてはと思いますよね。

しかし自助ということをたたきこまれすぎて、自殺する直前まで福祉課の窓口を訪れない人も多いといいます。

社会福祉のシステムについてよく知らないという事実もあります。

生活保護を受けようとしても、体よく窓口で追い払われてしまうという現実もあるのです。

行政の窓口で応対する係のひどさは、よく語られています。

最近では訴訟にすらなっています。

NPOの人が同席すると担当者の態度がかわるという話も聞きます。

警察と同様に監視カメラで、逐一その様子を撮る必要があるのではないかとさえ、言われているのです。

全てがそうだなどというつもりはありません。

ていねいに応対してくれる窓口もあるに違いないのです。

筆者は「こども食堂」などの活動も同時に行っています。

その経験を元に、最後の最後まで諦めずに生きていくための方法論を語り続けているのです。

毎月の家賃が払えない人たちは、日当をその場でもらえる仕事につき、ネットカフェなどを転々とするしかありません。

食事代や、清掃代を払うと、1日単位で借りられる部屋もあるといいます。

しかしその実態は悲惨なものです。

12019 / Pixabay

それでも段ボールにくるまれて寝るよりはいいのかもしれません。

以前、このタイプのアパートが火災にあって、住んでいた人たちが何人も亡くなるという事件がありました。

保険も年金も満足にありません。

ただ毎日をあてもなく生きていく以外に方法はないのです。

定職に就きたくても、保証人すらいません。

アパートも借りられないし、生活保護の申請など考えたこともない人さえいます。

おひとりさまの老後

こうした時代には溜めが大切だと彼は言います。

溜めとはその人の周囲にどれだけの人的、物的な包囲網の支えがあるのかということです。

親がダメでも親戚や知人が一時的に救ってくれるということもあります。

あるいはものを貸してくれるということもあります。

そうしたクッションとしての溜めがどれくらいあるかで、滑り台社会から墜落せずにすむのです。

いい関係を構築できない人たちは、結局落ちていくしかありません。

これが厳しい社会の現実です。

現在のそれは根が深くて、むしろ広いような気がします。

社会学者、上野千鶴子の名前を聞いたことがありますよね。

老後の心配をしなければならない人が確実に増えたことについての本が何冊も出ています。

それも一人で老後を迎えなければならない人が多いのです。

ただし自立した女性ならば、なんとかこのくらいはできるかなというレベルに限定された話題が多いです。

多くの1人暮らしの老人たちはどのように感じているのでしょうか。

結婚せずに老後を迎えた人たちや、伴侶と死に別れ、一人で生き続けなければならない人たちが今、試されているともいえます。

子供はもう頼りにならないということなのでしょうか。

介護保険が整備され、1人でもなんとか生きられる時代になったということなのかもしれません。

安易に人に頼れない時代になりつつあります。

死生観にもうねりが見受けられます。

親子の関係も他者との関係も、全てが個人主義の時代を迎え、根本から地殻変動を起こしつつあるのです。

人は必ず老いていきます。

その時どういう行動をとるのかということを若い時代から考えなければならない世の中になりました。

高齢になるまでのんびりと暮らし、あとは成り行きにまかせるという生き方はもうできないのです。

溜めを育てる

ここまでくると、自分の周囲に少しでもコミュニティを作り上げておくことの大切さを感じます。

人は1人では生きていけません。

最悪の時でもバイパス道路を作っておき、そこへ逃れる。

それが知人や親戚でない時は、行政でもNPOでも差し支えありません。

誰かに頼るのです。

自助は美しい言葉ですが、それだけで生き延びることができない時、やはり誰かに頼って生きるということを考えなければならないでしょう。

福祉サービスを受けるためには住民票が必要です。

決まった住所がなければ、申請もかないません。

仕事につくことも難しいのです。

1人暮らしの老人がアパートを借りることには困難が伴います。

事故住宅になるのを家主が怖れるのです。

そのための保証人になってくれる組織もあります。

あるいは溜めがあれば、その周囲の人にお願いするということも考えられます。

遠くの親戚より、近くの他人という言葉もあります。

個人主義が人々の距離を離し、寂しい存在にしています。

せめて互いの間をなんとかして繋げあう絆を少しでも作っておかないといけません。

本当にひとりぼっちの老後しか待っていないことになります。

溜めを作るには努力も必要です。

そのことだけは忘れてはダメです。

面倒臭いと呟いているワケにはいかないのです。

棚からぼた餅が落ちてくるワケでは決してありません。

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自戒をこめてはっきりと言っておきましょう。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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