名人圓朝に出会えた幸運をみごとに開花させた桂歌丸の噺家人生

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みなさん、こんにちは。

アマチュア落語家すい喬です。

今日はまた一段と暑さが増すようで、さて生きていけるものかどうか。

人の一生は終わってしまえばあっという間。

去る者は日々に疎しなどともよく言われます。

落語家桂歌丸が亡くなってはや1年。

最後は笑点終身名誉司会者になりました。

放送開始当時からの大活躍です。

昨年2018年7月2日に81歳で亡くなるまで、実に60年間の落語家人生でした。

1936年、横浜真金町の遊郭の一人息子として生まれたという話はかなり有名です。

このあたりから後に笑点に登場するまでの様子はBS日テレが何度かテレビ特番で放送しました。

ご覧になった方も多いことでしょう。

初回放送日が2017年10月9日。

出演橋は歌丸が尾上松也、奥さんの富士子が水川あさみ、遊郭の女将で母親役が泉ピン子。

その他、笹野高史、谷原章介、藤田弓子、渡辺いっけい、さらに笑点メンバーも多数出演しました。

この放送は今年の1月にも再放送されました。

その人気がどれほどのものか、容易に想像できます。

子供のころから落語が大好き。

小さなラジオにかじりつき、人を笑わせることの楽しさを知っていました。

中学卒業後すぐに当時の人気噺家五代目古今亭今輔の弟子となります。

おばあさん落語で一世を風靡した穏やかな人でした。

普通の前座修行は家事いっさいを弟子にやらせますが、今輔は落語の稽古に来ているのだから、余計なことはしなくていいという方針だったとか。

ぼくは今まで随分と芸人伝を読んでいます。

しかし今輔のような紳士タイプの人はほとんどいません。

弟子を呼びつけにするなどということもありませんでした。

古今亭今児誕生

1951年、入門。

前座名は今児。

前座として楽屋で太鼓打ちなどを修業しているうちに今輔から高座に上がることを認められます。

1954年二つ目に昇進しました。

噺家にとって一番嬉しいのがこの二つ目昇進です。

前座時代は全く自由時間がありません。

1年間ずっと拘束され続けます。

それが晴れて、紋付き袴を着ることが許され、自分が高座に上がるときのお囃子まで許されます。

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もう毎日師匠にくっついていなくてもいいのです。

自分の出番が終われば、すぐに自由時間がやってきます。

その後師匠の勧める新作落語路線を疑問視する自分がいることに気づきます。

どうしても古典をもっとやりたいと告げたとき、破門が言い渡されます

このあたりの事情は彼の本『歌丸不死鳥ひとり語り』にもたくさん出てきます。

Bitly

師匠は新作、自分は古典。

prettysleepy1 / Pixabay

寄席でも古典しかやらない弟子と師匠今輔との間はぎくしゃくする一方でした。

二つ目になってこれからという時から、歌丸の本当の苦しみが始まります。

師匠は表だって「古今亭今児」という看板を取り上げることはしませんでした。

名前だけでもあれば、なんとか食べていけるだろうという恩情です。

しかし仕事はない。

マッチのラベル貼り、鳥籠のメッキ、化粧品のセールスマン。

どれもこれも生きていくための方便でした。

しかしこの時代を生き抜いたことで、人間観察の目が養われました。

2年後、師匠に詫びをいれます。

一度飛び出したものを元に戻すわけにはいきません。
米丸さんのところへ行きなさい。

これにはさすがの桂米丸もびっくり。

ご存知ですよね。

現在噺家中、最高齢94歳でいまだ現役、活躍中の人です。

米丸は今輔の総領弟子だったのです。

1961年、ここから名前を桂米坊とかえて、再び高座にあがれることとなりました。

桂歌丸誕生

その後2年半ほどして、歌丸と名前をかえます。

米坊という名前と顔が似ても似つかないというのがその理由でした。

ここからが人間の運命の不思議とでもいえるのかもしれません。

立川談志と知り合ったことで、急に世界が開けます。

その出会いもテレビ落語番組「金曜寄席」の出演者を決めるオーディションだったのです。

正装をして、何も言わずにお蕎麦をただ食べ最後にぽつりと言ったシャレ。

最高に面白かったという談志の激賞があり、圓楽とともにレギュラーの位置を獲得したのです。

その時のシャレとは…。

K2-Kaji / Pixabay

最後に一言。

「おソバつさまでした」

1966年日本テレビの「笑点」のレギュラーメンバーとして人気を不動のものにし、1968年には真打に昇進します。

ここで笑点だけに埋没していたら、おそらく歌丸の名がここまで轟くことはなかったと思います。

事実、たくさんの噺家がレギュラーになり、その後消えていきました。

芸人の末路はある意味哀れです。

なんの保証もありません。

歌丸と張り合って一躍人気を得た三遊亭小円遊は自分の実像とテレビに映る巨像との狭間で揺れ、酒を浴びるように飲んで43歳で亡くなってしまいました。

林家こん平は無理がたたって、今も療養中です。

テレビというマスメディアが持っている装置としての怖さを十分知らないまま、人気という化け物に乗ってしまうと、その結果は非情なものになることが多いようです。

1970年代から古典落語の重要性を認識し始め、埋もれていた古典落語を発掘、脚色して自らの独演会でつぎつぎと発表し始めます。

そのきっかけをくれたのは、TBSの白井良幹プロデューサーでした。

圓朝との出会い

三遊亭圓朝のつくった『牡丹灯籠』の中でも後半の山場、「栗橋宿」。

これをやってみろと勧めてくれたのです。

まさか自分がと思った歌丸は何度も固辞しましたがも騙されたと思ってやってみろという声に押されて、稽古をし始めます。

これが思いの外、いい仕事になりました。

今では六代目圓生と並んで、歌丸の栗橋宿は身に迫るものを感じさせます。

この段は、最終的には女房を殺してしまう主人公と、なんだかんだといいながらも夫を愛し続ける女の哀しみを描いたところです。

それまでの夫婦仲ががらりと転換するきっかけが、ふとしたことで手に入った金でした。

男の心変わりとそれを知らずについて行こうとする女。

殺される場面は凄惨そのものです。

この高座を国立劇場でやり遂げたという自信が、噺家の中に目覚めたんですね。

ここから圓朝ものに対する傾倒が始まります。

『真景累ケ淵』を5席に分けて口演してみたい。

『深見新五郎』『勘蔵の死』『お累の自害』『聖天山』『お熊の懺悔』

さらに2002年から2005年にかけて『牡丹灯籠』を。

『お露と新三郎』『お札はがし』『栗橋宿』『関口屋のゆすり』

ここまでくると最後は残しておいた『真景累ケ淵』の中の『豊志賀の死』です。

これだけは誰でもがやろうとしますが、歌丸は最後までとっておきました。

夏の国立劇場公演が話題になるにつれ、笑点の歌丸と圓朝噺の歌丸がオーバーラップし、その評価をぐんぐんとおしあげていったのです。

もちろん、それ以外の古典落語をやらなかったわけではありません。

しかしこの一連の流れの中で、圓朝に出会ったということは、彼の芸心に火をつけたことはいうまでもありません。

普通ならやらない場面も取り入れ、逆に不要な部分は全部カットして、短くまとめるという作業を徹底して行いました。

その集大成が、たくさんのDVDとして発売され、さらに今年の7月、口演速記録として出版もされています。

桂歌丸口伝 『圓朝怪談噺』

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ぼくも早速手にいれようと注文したばかりです。

今までは怪談ものはすべて六代目三遊亭圓生のものから学んできました。

圓朝の原作も読みますが、やはり言葉が今風でないところもあり、なじめない箇所もあります。

歌丸の速記録を楽しみにしているわけなのです。

生来やせ形で50キロを超えたことはないという体重は、病気を重ねているうちに40キロを切るまでに軽くなりました。

しかし、歌丸の落語に対する情熱はすごいです。

最後は「塩原多助一代記」をライフワークにしました。

「青の別れ」が一番有名です。

ややこしいを話を多助の立身出世だけに限ってまとめたのです。

執念としか言えません。

圓楽没後、笑点の司会もかなりの重荷になっていたことと類推できます。

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さらには落語芸術協会の会長職も大変だったでしょう。

ぼくは数年前、ある噺家の真打ち披露パーティに出かけました。

その時も歌丸師は杖をついて出席し、挨拶をしました。

公式行事が次から次へと続き、揉め事もないわけではない。

あまりに会長が動きすぎると、下の人が仕事をしづらくなる。

難しい立場です。

幸い、芸術協会は若手がどんどん台頭し、育っています。

柳亭小痴楽や神田松之丞の真打ち昇進など、賑やかな話題もたくさんあります。

その流れを見ながらの大往生だったのではないでしょうか。

歌丸伝説は笑点が続く限りまだまだ語られると思います。

本当に幸せな人生を歩んだ芸人なのではないでしょうか。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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