末法の時代
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。
今回は鴨長明の随筆『方丈記』について書かせてもらいます。
誰もが知っている有名な本です。
全文を読んでもそれほど長いものではありません。
しかし歴史書としての価値もあります。
特に飢饉、台風、火事などの記事は正確そのものです。
どの時代に何があり、それがどのような様子であったのかを知るために、大変貴重な記録なのです。
と同時にこれほど日本人の気分にピッタリな随筆はないのではないでしょうか。
よく言われる「無常」という感覚です。
長明が生まれた時代は、1156年の後白河天皇と崇徳上皇の対立による保元の乱、1159年の平清盛と源義朝の対立による平治の乱が起こった波乱の時代でした。
公家による政治から、平氏政権を経て、武士が政権を握る鎌倉時代へと世の中が大きく転換していった時期にあたります。
長明はいったい何を見ていたのでしょうか。
世の中はまさに末法の時代でした。
釈迦が入滅して以後、全ての正義が衰退するという末法思想の世の中だったのです。
人々は何も信じるものがなくなりました。
来世が見えなくなったのです。
次々と起こる飢饉、台風、地震、火事がその恐怖を増幅させました。
世の中に不変、不滅のものはないという「無常観」が人々の間に浸透していったのです。
鴨長明は下賀茂神社の神官です。
現在、敷地内に方丈の庵が復元され、その様子を体感することができます。
彼は狭い庵から世界を凝視し続けました。
いったい何が見えたのでしょうか。
ここではまず序文を読みましょう。
古文の中でこれほどに有名な文章はありません。
高校では必ず全文を暗記してもらいます。
意味など分からなくていいのです。
言葉のつながりの美しさが自然な流れを生んでいます。
和漢混交がこれほどみごとに結実した文も珍しいのではないでしょうか。
日本語の文章としても出色のものです。
序文全文
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖と、又かくのごとし。
たましきの都のうちに棟を並べ甍を争へる、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋ぬれば、昔しありし家はまれなり。
或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。
住む人も是に同じ。
所もかはらず、人も多かれど、古見し人は二三十人が中に、わづかに 一人二人なり。
朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
不知、生れ死ぬる人、 いづかたより来りて、いづかたへか去る。
又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
或は露落ちて花残れり。
残るといへども、朝日に枯れぬ。
或は花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども、夕を待つ事なし。
現代語訳
流れる川が絶えることはありません。
とは言え、その水は元の水ではないのです。
川面に浮かぶ泡は、消えては生まれ、生れては消え、片時もとどまることはありません。
世の中に棲む人も住みかもまたこれと同じです。
絢爛豪華な都の中にあって、軒を並べ、甍を競う、貴賎上下の人々の住まいは、幾世代にわたって尽きせぬものですが、これをよく見ると昔から続いている家は稀です。
去年火事にあって立て替えられていたり、大きな家だったのが没落して小さな家に替わったりしているのです。
中に住む住人もまた同じです。
場所も変わらず、住む人も多いのですが、昔からそこに居たという人は、2、30人のうちに1人、2人です。
朝に生れて、夕方には死ぬ、
これこそまさに 川面に浮かぶうたかたと同じなのです。
生れ来たる人、死に行く人、どこに生まれ、どこへ去るのでしょうか。
この世は仮の宿り、誰のために悩み、何を望んで楽しむのでしょうか。
人と住まいをめぐる無常の姿は、朝顔にそっくりです。
朝露が落ちて花が残ります。
残ったといっても朝日に当たれば花は枯れてしまいます。
また時として、花が萎んで露が残ることもあります。
残ったといっても、夕方まであるわけではありません。
意味だけを読み取るのではなく、文章を何度も読んでください。
このリズムがみごとなのです。
読んでいるだけで気持ちがよくなります。
古文の良さはまさにこの言葉の抑揚なのです。
しみじみと味わってください。
無常という思想
方丈記の冒頭の一節はまさに無常観の象徴そのものです。
万物は常に変化し永遠不滅のものはありえないという仏教の考え方です。
天災や争乱についての記事を読んでいると現代そのものを象徴しているとしみじみ思います。
コロナ禍に続く、豪雨のニュースをみればすぐにわかります。
今の日本に飢饉はないでしょうが、方丈記に描かれる養和の飢饉では死者は4万人を超えたと言われています。
愛する者との死別や都の荒廃などは人々に世の無常を強く意識させたにちがいありません。
コロナウィルスがあっという間に世界の姿を変えたのにも似ています。
現実の社会に不安や不満の気持ちを抱いた人の中には、出家したりひっそりと隠れ住んだりする者も出たのです。
『方丈記』や『徒然草』にはそうした隠遁生活に対する憧れが印象深く記されています。
こうした無常に美を見いだすという新しい理念は、中世の歌論や能楽論、また近世の芭蕉の俳諧などにも影響を与えているのです。
日本人の美意識の根底にしっかりと根付いた思想だといっていいでしょう。
無常観に裏打ちされた芸術は日本人にとって懐かしい香りに満ちています。
「一所不住」という考え方もあります。
1つのところにずっと住まず、日本の風土の中を放浪して生きるという思想です。
放浪しつつ生きるという考え方に対する憧れが、多くの俳人、詩人を生みました。
近代以降もさまざまな思想家によって無常観は評価され続けてきました。
その代表が小林秀雄の『無常という事』というエッセイです。
この随筆によって、無常は日本人の美意識の1つとして完全に定着しました。
「日野山の閑居」の段などを読んでいると、これ以上、何を望むことがあるのか。
今の生活があればそれで十分ではないかと何度も呟いていることに気づきます。
ある意味で現代までを貫く強烈な視線だといえるのではないでしょうか。
私たちも反省しなければいけないことがたくさんあるような気がします。
もう一度最初から読み返してみてください。
きっと身に染みるところがあることでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。