【鶯宿梅・大鏡】みやびを求めるあまり暴走した若き日の失敗談

紀伝体

みなさん、こんにちは。

今回は『大鏡』をとりあげましょう。

このブログでもいくつか記事にしています。

基本は摂関政治の時代に生きた藤原道長のエピソードが中心です。

しかしそれだけではありません。

いろいろな人の話が紀伝体で書かれています。

紀伝体という言葉を御存知ですか。

年代別に書かれた歴史ものを編年体と呼んでいます。

紀伝体は1人1人の人物にスポットをあてて文章をまとめたものです。

人物像が生き生きしているのが『大鏡』の特徴なのです。

今回のテーマも味わいに満ちていて楽しいです。

『大鏡』は、京都雲林院で菩提講に集まった人々に対して昔語をしたものを記録をしたという体裁で書かれています。

語り手は大宅世継190歳と夏山繁樹180歳。

このあたりからもう現実離れしていますね。

作者は未詳、成立は平安時代後期です。

この「鶯宿梅」は、夏山繁樹が若いころの出来事を語った昔話なのです。

読み方が難しいですね。

「おうしゅくばい」と読みます。

「鶯」と「梅」のとりあわせは昔から語られています。

古来より梅にはうぐいすというのが定型の組み合わせでした。

この文章の中に出てくる「遺恨のわざ」とは何のことなのでしょうか。

遺恨とは後悔すべきこと、残念なことという意味です。

帝はどんなことを後悔し残念がったのでしょう。

そのあたりに着目しながら、読んでみてください。

本文

「いとをかしうあはれに侍りしことは、この天暦の御時に、清涼殿の御前の梅の木の枯れ

たりしかば、求めさせ給ひしに、某主の蔵人にていますがりし時、承りて、『若き者ども

はえ見知らじ。きむじ求めよ。』

とのたまひしかば、一京まかり歩きしかども、侍らざりしに、西の京のそこそこなる家に

、色濃く咲きたる木の、様体うつくしきが侍りしを
、掘り取りしかば、家あるじの、

『木にこれ結ひ付けて持て参れ。』

と言はせ給ひしかば、あるやうこそはとて、持て参りて候ひしを、

『なにぞ。』

とて御覧じければ、女の手にて書きて侍りける、

勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ

とありけるに、あやしく思し召して、

『何者の家ぞ。』

と尋ねさせ給ひければ、貫之の主の御女の住む所なりけり。

『遺恨のわざをもしたりけるかな。』

とて、あまえおはしましける。

繁樹、今生の辱号は、これや侍りけむ。

さるは、『思ふやうなる木持て参りたり。』

とて、衣かづけられたりしも、辛くなりにき。」とて、こまやかに笑う。

現代語訳

たいそう興味がひかれ感慨深くございましたのは、この村上天皇の御代に、清涼殿の御前

の庭の梅の木が枯れてしまったので、代わりをお探しになりましたところ、誰それ殿が蔵

人でいらっしゃった時、仰せをお受けして、その人が私に

『若い人たちはどんな木がよいか見てそれとわからないだろう。おまえが探してきなさい

』とおっしゃったので、都中歩き回りましたけれども、ございませんでしたが、西の京の

どこそこにある家に、色濃く咲いた木で、姿の立派なのがございましたので、
掘り取った

ところ、その家の主人が、

『木にこれを結びつけて持って参上してください。』

と召し使いに言わせなさったので、何かわけがあるのだろうと思って、内裏に持参してお

控え申しあげましたのを、

『何か。』

と言って帝がご覧になったところ、女性の筆跡で書いてございました。

歌には、勅命(天皇の命令)ですから畏れ多いことです。

この木は差しあげます。しかし鶯が、自分の宿はどうなったと問うたならどう答えましょ

うか。とあったので、不思議にお思いになり、

『何者の家か。』

と命じてお調べになったところ、貫之殿の娘(紀内侍)の住む所でした。

帝は『残念なしわざをしたものだなあ。』

と、きまり悪がっていらっしゃいましたよ。

繁樹の、一生涯中の恥辱はこれでございましたでしょうか。

とは言っても、

『思いどおりの木を持参した。』

と言って、ご褒美の衣を頂戴したので、かえってつらくなってしまいました。」と言って

、にこやかにお笑いになりました。

左近の梅

清涼殿の前に、「左近の桜」「右近の橘」が配置されていることはご存知でしょうか。

現代でも、神社などにはこの一対の木がよく植えられています。

昔は「左近の梅」が標準だったのです。

しかし人々の花の好みの変化により、いつの頃からか「左近の桜」になりました。

やはり桜の方が華やかにみえたのでしょうね。

ここでどちらが「左近」「右近」なのか気になりませんか。

天皇が北を背にした位置が基準になります。

平安京では「左京」は東側、「右京」は西側です。

間違えやすいので、十分に注意しておいてください。

紀貫之の娘が梅の木に付けておいた和歌の意味、真意がわからなければこの作品の味わいはわかりませんね。

この歌人の名前は記憶にとどめておかなければいけません。

『古今和歌集』の選者であり、『土佐日記』の筆者です。

当時、第一線の歌人で誉れ高い人でした。

ilyessuti / Pixabay

こともあろうに、その人の娘の家の梅の木を抜いてしまったのです。

美しい花を咲かせる木を清涼殿に植えたい、ということは実に風雅なことです。

しかしそのために、権力にものを言わせて、 他人の家の庭から梅の木を根こそぎ掘りだして植え替えるなどということは、考えられないことです。

梅の木の主である貫之の娘は、そのやり方を和歌を通して非難したのでしょう。

あなたのやっていることは、風雅の道と言えるのですかというワケです。

みやびを求めるにしては、もっと別のやり方というものがあるのではないですか、というのです。

平安時代の人々は、何よりも「雅びではない」と評価されることを恥ずかしいと感じました。

そのポイントが読み取れれば、この作品の意味が理解できたということになるのではないでしょうか。

地の文に丁寧語や、聴衆に対する敬語表現が時々現れるのは、『大鏡』の文章が老人の語り口調だからです。

発言が長いので、語りの文章とは気付かない時もあります。

『大鏡』の文章を読む時には、そんなところにも注意して読んでみてほしいですね。

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歌人の娘がやはり歌で勝負したという、ちょっと心躍る話です。

今回も最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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