待ってみる力
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
作家の大江健三郎がつい先日亡くなりましたね。
88年の生涯でした。
その間に数々の文学賞を受賞しました。
芥川賞、谷崎賞などをはじめとしノーベル賞をとったことなども思い出されます。
日本人では1968年に獲得した川端康成について、94年の大江健三郎が2番目でした。
若いとき、ほとんど彼の作品を読んだ記憶があります。
友人が当時発禁処分を受けていた『政治少年死す』をコピーしてくれたこともありました。
全く書店には出ていなかったのです。
『奇妙な仕事』の持つ不思議さにも魅了されました。
こういう題材を扱った小説は、それまで読んだことがありませんでした。
今、ページをめくっても戦慄的です。
『死者の奢り』では人間の死体を処理するという、アルバイトの世界をみました。
大学病院の暗い廊下が、目の前に浮かんできます。
その後「飼育」などの代表作を次々と読了しました。
『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』、その他、広島や沖縄に関するエッセイあたりまでは読んだような気がします。
その後は、あまり彼の小説を読んだ覚えがありません。
どこか遠いところへいってしまった感覚とでもいえばいいのでしょうか。
小説家というよりも、平和運動家としての表情の方が、色濃かったような気もします。
亡くなってから、急にまた著作が売れ出したという記事も新聞で読みました。
そこで、彼の書いたエッセイが教科書に載っていないかと探してみたのです。
筑摩書房の1年生用のものにありました。
「ある時間、待ってみてください」というのがそれです。
子供の頃の話
何を待てというのか。
それがここでの主題です。
もう自分は取り返しがつかないことをするほかない、と思う時、とにかく「ある時間、待ってみる力」を持て、もうダメだ、とあきらめるな、といいたいのですと本文にはあります。
これが主旨です。
ここに全てのテーマが含まれています。
子供にとって、この「ある時間」ということが本当に大切なのだと彼は主張しています。
大人になってしまえば、「ある時間」待ってみても同じだ、ということはあるかもしれません。
しかし子供にとっては、絶対そうではない。
待ってみる「ある時間」のなかに、すべてがある、といっていいくらいだというのです。
悲痛な叫びのようにも聞こえますね。
この文章を読んだ時、なぜかキューバ危機のことを思い出しました。
第三次世界大戦が勃発する瞬間のことです。
それを押しとどめたのは、もうしばらく核のボタンを押すのを待とうと決意するだけの時間が互いの国にほんの少しずつ残っていたからです。
あの時米ソが待つことをしなければ、今頃世界はどうなっていたのか、全く予測がつきません。
大江健三郎のこのエッセイを、そこまで拡大解釈してしまう必要はないでしょうね。
ここではもっと精神的な論点を展開をしていると考えるべきです。
ここにあげた言葉は『「自分の木」の下で』という本の中に出てきます。
人生の難問に解決がすぐにつくことなど、ほとんどありません。
全くないといってもいいのです。
だからこそ、待てと言っているのです。
サミュエル・ベケットの戯曲を御存知ですか。
『ゴドーを待ちながら』という名作です。
なかなか現れないゴドーを待ちながら、2人の男のモノローグが続くという、不思議な戯曲です。
ついそのことを思い出してしまいました。
今回は大切なところだけを抜粋しました。
この文章に出てくる、もう取り返しがつかないこととは具体的に何であるのか。
生きてゆくという大きい数式とはどのようなことか。
この2つの大きなテーマを考えながら、読んでみください。
本文
私はとくに、文章に書かれた条件から数式を組み立てて、解いてゆく問題が好きでした。
解く過程で、複雑な数と記号の式の、ある部分を一応、カッコでくくって、それをたとえばAであらわします。
それだけ、数式が簡単になりますし、計算を進めてゆくうち、等号の両側におなじ数のAがあることがわかったり、分子と分母にAがあって、両方とも消えてしまったりすることがあります。
またAが消えなくても、すっかり整理された式に、あらためてカッコをといて、Aの内容を代入すると、計算がスラスラスとできあがる、ということもありました。(中略)
じつはそのころから、数学よりほかの難しい問題についても、一部分をまずカッコでくくってAとする手続きで考えることを、始めていました。
またやっと計算が整理されてきたので、Aを具体的な内容に戻すと、最初の難しい問題がそのまま残っている、ということがあったのでした。
そういう時、私は数学の場合とは少し別に、自分はこの問題のいちばん難しいところから、逃げていただけだと気がつきました。(中略)
さて、私が数学をめぐる思い出を話したのは、次のことを説明したいと思ったからです。
私は「ある時間、待ってみる力」をふるい起こすことが、子供には必要だといいました。(中略)
そのうち、カッコの中の問題が、自然に解けてしまうことがあります。
カッコのなかの問題をBとすれば、「ある時間」待っている間も、とくに子供の時、私たちはそうしてもすっかりそれを忘れていることはできません。(中略)
そして「ある時間」たって、カッコをといてみても、まだ問題がそのままであれば、今度こそ正面からそれに立ち向かってゆかなければなりません。
しかし子供のあなたたちは、なんとかしのいだ「ある時間」のあいだに、自分が成長し、たくましくなっていることに気がつくはずです。
フランス文学の影響
大江健三郎の小説には、フランス文学の影響が色濃く滲んでいます。
論理の組み立て方が、それまでの日本の小説とは全く違います。
一言でいえば、想像力で全てを組み立て、そこに論理を嵌め込んでいく方法です。
日本の自然主義文学などにはない、理知的な方向です。
別の言葉でいえば、翻訳しやすい文学と呼べるかもしれません。
どの国の誰でもが、読める構造になっています。
日本人的な感性を無理に引きずらなくても読めます。
そういう意味では、世界的な規模をもったスケールの大きな文学であるといえるでしょう。
大江健三郎は自分の子供を主題にして、いくつもの小説を書いています。
『個人的な体験』はその中でも秀逸です。
彼は脳に障害を持った長男の問題を、ただちに解決しようとはしませんでした。
可能性にゆだねたのです。
やがて大江光という作曲家の才能を見出だすことに成功しました。
結果どうなったのでしょうか。
「ある時間、待ってみること」が、誰も想像していなかった、最高の結果をもたらしたのです。
困難に直面したとき、一見すると悪いように思えてしまうことを一度「括弧」にくくってみるという発想が、実証されているだけに、リアリティがあります。
このテーマで小論文を書きなさいと言われたら、あなたはどのようにまとめますか。
あるいは感想でもかまいません。
積極的に文章にしてみてください。
そうすることで、考えがまとまります。
これを機会に彼の小説を読んでみるのもいいですね。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。