道心の妨げ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は西行法師の編になるものと言われてきましたが、これといった確証のない『撰集抄』を題材にとりあげます。
おそらく数人の書き手たちが西行に仮託して書いたものと考えられます。
鎌倉時代の初期に成立したといわれています。
しかし、これもはっきりしたことはわかっていません。
全体が9巻からなる仏教説話集です。
日本や中国の僧たちの発心、往生、遁世の伝説や逸話など121話を収めています。
授業で扱ったことはありませんでしたね。
その中でも、平安時代の僧、増賀上人(そうがしょうにん)の話はなかなか傑作です。
聖僧としての名声は高かったものの、奇行が多かったことで有名なのです。
上人は奈良県桜井市にある多武峰(とうのみね)の僧侶として知られていました。
ある時、伊勢神宮に参詣したことがあります。
その折「名利を捨てよ」というご託宣を得て、仏道修行に徹することにしました。
増賀上人の師は、天台宗比叡山中興の祖といわれる慈惠(じえ)僧正です
つまり僧正の弟子ということになります。
ここで問題になるのが「名利を離れる」ということの意味です。
聞いたことのある言葉ですね。
「めいり」と読みます。
「みょうり」ではありません。
まったく意味が違ってしまいます。
「名利の心」とは読んで字の通り、名声を求める心と利を得て我が身を肥やそうと貪り求める心のことです。
この2つがあることで、人はどうしても卑しくなってしまうものなのに違いありません。
仏教では難しい言葉ですが、「名聞利養」という表現があるそうです。
誰もが有名になり、私腹を肥やしたいと思うのは、ある意味当然でしょう。
しかしその気持ちを抑えなさいというのが、同時に仏の教えでもあるのです。
この話は、慈恵大師と増賀上人との「名利を離れる」ことについての考えの違いを読み取ることがポイントになります。
上人は名利を求める心を離れるために、いったい何をしたのでしょうか。
本文
昔、増賀聖人といふ人いまそかりけり。
いとけなかりけるより、道心深くて、天台山の根本中堂に千夜こもりて、これを祈り給ひけれども、
なほ、まことの心やつきかねて侍りけん、ある時、ただ一人、伊勢大神宮に詣でて、祈請し給ひけるに、夢に見給ふやう、
「道心を発さんと思はば、この身を身とな思ひそ」と示現を蒙り給ひけり。
うちおどろきて思すやう、「名利を捨てよとにこそ、侍るなれ。さらば捨てよ」とて、着給へりける小袖衣、みな脱ぎくれて、一重なるものをだにも身にかけ給はず。
赤裸にて下向し給ひけり。
見る人、不思議の思ひをなして、「物に狂ふにこそ。見めさまなんどのいみじきに、うたてや」など言ひつつ、うち囲み見侍れども、つゆ心もはたらき侍らざりけり。
道々物乞ひつつ、四日といふに山へ上り、もと住み給ひける慈恵大師の御室に入り給ひければ、「宰相公の物に狂ふ」とて見る同朋もあり。
また、「かはゆし」とて、見ぬ人も侍りけるとかや。
師匠の大師、ひそかに招き入れて、「名利を捨て給ふとは知り侍りぬ。ただし、かくまでの振る舞ひは侍らじ。
はや、ただ威儀を正しくして、心に名利を離れ給へかし」といさめ給ひけれども、「名利を長く捨て果てんのちには、さにこそ侍るべけれ」とて、
「あら楽しの身や。をうをう」とて、立ち走り給ひければ、大師も門の外に出で給ひて、はるばると見送り侍りて、そぞろに涙を流し給へりけり。
現代語訳
昔、増賀聖人という人がいらっしゃいました。
幼かったときから仏道への信仰が深くて、比叡山の根本中堂に千夜こもって、祈願されたけれど、それでも真の仏道修行の覚悟がえられなかったのでしょうか。
ある時ただ一人で伊勢神宮に詣でて、祈って誓いをたてたそうです。
すると上人が夢にご覧になったことには「道心を発さんと思うならば、この身体を自分のものだと思って執着することをやめよ」という啓示を受けたそうです。
上人ははっと目覚めてお思いになることには、「名利を捨てよということのようだ。それならば全てを捨ててしまおう」と、着ていた下着などをみんな物乞いたちに脱ぎ与えたのです。
何も身につけず、素裸で伊勢神宮から下向なさいました。
見る人は不思議な面持ちで、「きっと何かにとりつかれたのだろう」と思い、姿があまりにおかしく異常なので気味が悪い」などと言いながら、
取り囲んでみましたけれども、上人はまったく心が動揺しませんでした。
道々、物乞いをしながら、四日かけてもとの比叡山へのぼり、もともと住んでいた慈恵大師のお部屋へお入りになりました。
「宰相公が何かにとりつかれている」といって見る同僚の僧もあったそうです。
師匠の大師がひそかに招き入れて、「貴僧が名利をお捨てになるということはわかりました。
しかし、ここまでやる必要はないでしょう。
いますぐ僧衣を着て威儀を正して、余分な名利から脱しなさい」といさめたけれども、
上人は「名利を長く捨て果てた後には、大師のおっしゃる通りにいたします」と言い、「楽しいです、おうおう」とつぶやきながら、立って走り出られたので、
大師も門の外にお出になって、涙を流していたそうです。
己れを捨てる
日本人は特に集団意識の強い民族だといわれています。
何かといえば、すぐに他者と比べてしまう傾向があるのかもしれません。
酒井雄哉という大阿闍梨が、かつて千日回峰行を2度もした話は有名ですね。
その時の様子を『一日一生』という本にまとめています。
通常の精神力ではとてもできるものではありません。
満願までには七日間のお堂入りなどという過酷な修行もあります。
その間、不眠不休で、深夜には仏に捧げる水を汲みにお堂の外まで出なければなりません。
名利ということを考えたとき、それとひきかえに「死」がすぐ目の前に見えたに違いありません。
大阿闍梨という称号などは、なんの意味もなさなくなっていったと思います。
お亡くなりになってかなりたちますが、今でもこの本の広告が新聞に載っています。
よほど多くの人に読まれているのでしょう。
写真をみると、実に穏やかな表情をしています。
己れを捨てるということの道の遠さだけを感じます。
さて増賀上人の話に戻ります。
上人は「どうしたらわが身を空しくすることができるのか」ということだけを考え続けました。
ある時、大極殿において天皇の目前で正月14日に行われる、経文の内容を高僧達に論議させる催しがありました。
供養のために貴人達は食べ物の残りを庭に投げ捨てるという風習があったのです。
それを乞食達が争い合って食べるという習わしでありました。
増賀上人は突然走り出て、これを取り一緒に乞食と食べたという話もあります。
周囲の貴人たちは「物に狂ったのか」と騒ぎたてましたが、上人は平然としていたということです。
その後は、多武峯にこもり修行三昧の年月を送ったのです。
上人はいつもこう言っていました。
「名聞(名声)は苦しい。気楽なのは乞食(こつじき)の境涯だけだ」と。
奇行が伝えられるたびに、上人は俗世間では高僧として崇ることになっていきます。
これが人の世なのかもしれません。
俗世間を離れようとすればするほど、心が千々に乱れることを感じていたのでしょう。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。