【足摺岬・とはずがたり】補陀落渡海という水葬の風習がこの地名の由来だった

足摺岬の由来

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『とはずがたり』を取り上げます。

この作品は学校では滅多に扱いません。

男女の愛欲場面があるためか、内容的に不向きだという認識が存在します。

しかしその中で、この「足摺岬」の由来に関しては学習するケースもあります。

この段は作者が安芸の厳島神社に参詣した後、瀬戸内海の船旅を続けている際に見聞した伝承の記事です。

足摺岬という地名がどうしてついたのかについて、考えさせる内容になっています。

『とはずがたり」という古典作品はご存知ですか。

日記文です。

作者は後深草院二条。

成立は1306年以後、1313年以前とされています。

タイトルがやユニークですね。

「問はず語り」と書けば理解しやすいでしょうか。

「訊ねられていないけれど、自分から語りましょう」というのが、その直接的な意味です。

内容は1271年、作者が14歳で後深草院に召された時から、49才ごろの院の3周忌までの15年間の回想録になっています。

彼女の後半生は孤独でした。

作者が関心をもったのは、この地域に昔から根付いていた風習、補陀落渡海(ふだらくとかい)だったのです。

聞いたことがありますか。

観音菩薩の浄土である補陀落山への往生を願って、60歳を過ぎると僧侶を海上へ船で送り出すという風習がかつてありました。

南に浄土があると考えられたため、特に熊野や土佐から出発したのです。

窓や扉のない船に乗せ、外から釘を打ち付けたといわれています。

1か月分程度の食料が尽きれば、死を意味しました。

事実上の水葬です。

姥捨山の渡海版とでもいえばいいのかもしれません。

本文

かの岬には、堂一つあり。

本尊は観音におはします。

隔てもなく、また坊主もなし。

ただ修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。

「いかなるやうぞ」と言へば、「昔、一人の僧ありき。この所に行ひてゐたりき。小法師一人使ひき。

かの小法師、慈悲を先とする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人来て、斎、非時を食ふ。

小法師、必ずわが分を分けて食はす。

坊主いさめて言はく、『一度二度にあらず。さのみ、かくすべからず』と言ふ。

またあしたの刻限に来り。

『心ざしはかく思へども、坊主叱り給ふ。

Kyoto, Japan – December 4, 2016: Buddhist monk walking through Tsutenkyou(bridge)at Tofukuji temple in Kyoto Japan.

これより後は、なおはしそ。今ばかりぞよ』とて、また分けて食はす。

今の小法師言はく、『このほどの情け、忘れがたし。さらば、わが住み処へ、いざ給へ、見に』と言ふ。

小法師、語らはれて行く。

坊主、あやしくて、忍びて見送るに、岬に至りぬ。

一葉の舟に棹さして、南を指して行く。

坊主泣く泣く、『我を捨てて、いづくへ行くぞ』と言ふ。

小法師、『補陀落世界へまかりぬ』と答ふ。

見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫舳に立ちたり。

心憂く悲しくて、泣く泣く足摺りをしたりけるより、足摺の岬と言ふなり。

岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく帰りぬ。

それより、『隔つる心あるによりてこそ、かかる憂きことあれ』とて、かやうに住まひたり」と言ふ。

現代語訳

その岬には、御堂が一つありました。

ご本尊は観音様でいらっしゃいます。

堂内の仕切りもなく、また住職もいません。

修行僧が集まって、上下の隔たりもないのです。

どういうことかと聞いたところ、昔、一人の僧がいてこの堂で修行していたとか。

小坊主を一人使っていました。

この小坊主は慈悲の心を尊ぶ気持ちがあり、どこからともなく、もう一人、別の小坊主がやってきて、朝夕、一緒に食事をしていました

以前からいた小坊主は、自分の食事を分けていたのです。

すると、主の僧は、それを戒めました。

「一度や、二度ではない。そのようにばかりしてはならぬ」といいました。

翌日、食事の時間になると、小坊主がやって来ました。

「私はいつもあなたに食事をさしあげたいと思っていますが、主がお叱りになるのです。

今後はもういらっしゃらないでください。お食事は差し上げるのは今日だけです」といって、自分のを分けてあげたのです。

小坊主が言いました。

「これほどのお情けを私は忘れることはできません。」

私の住む家に、どうぞいらしてくださいませんか。」

そこで小坊主は、誘われるままにでかけたのです。

主の僧は、不思議に思って、こっそりそのあとをつけていくと、足摺岬に着きました。

すると二人の小坊主は一艘の小舟に棹をさして、南をめざして漕ぎ出していくではありませんか。

主の僧は泣きながら、「私を見捨て、おまえはどこへ行くのか」と訊きました。

すると、小坊主は「補陀落の世界へ参ります」と答えたのです。

見ると、二人ともが菩薩となり、船の舳先と艫に立っています。

主の僧は、つらく悲しくて足を摺って泣き続けました。

それ以降、ここを足摺の岬と呼ぶようになったという話です。

岩にその足跡が残ったものの、僧は空しく帰るしかありませんでした。

その後、「人を分け隔てをする気持ちがあったから、このような悲しい目にあったのだ」といい、今もこのように修行者たちは、上下の分け隔てなくこの御堂に住んでいるのだ」ということです。

足を摺るという仕草

あなたは足摺りという言葉を知っていましたか。

あまり聞いたことがない表現かもしれません。

足を摺るというのは、身をもがき、地団駄を踏むことを意味します。

とりかえしのつかないことをして、悔やむときの動作です。

しかし元々は倒れた状態で、足をすりあわせて泣き嘆くことを意味します。

自分の言動のために、とんでもない結果を招くことになったことを、後悔しているのです。

主の僧の弟子だった小法師が去ったあと、足摺岬の御堂には、本尊として観音が安置されています。

慈悲の権化とされる観音菩薩です。

弟子の小法師の説明にもある通りです。

彼に本当の悟りの道を示した新参の小法師は「知恵」の権化である勢至菩薩の化身だったのかもしれません。

結局、取り残されて泣く泣く足摺りをしたのは、主の僧でした。

食事を分けてはならないなどと、無慈悲なことを言ったのが原因に違いないのです。

結局、小法師(観音)に去られてしまいました。

観音の救いにあずかれなくなったのです。

いくら足を摺って後悔しても、もう手遅れでした。

たまたまこの岬を訪れた後深草院二条は、そこにある御堂に垣根もなく、また僧坊の主もいないのに意外な感じがしたようです。

修行者や通りすがりの人だけが集まっており、身分の上下も問わないというのが不思議でした。

どういう訳があるのかを訊ねたところ、こんな話が飛び出してきたというわけです。

昔の人の信仰心の強さがよく出ている章ですね。

現世を生き抜くのがつらく、多くの人は来世での幸福を祈る以外に道がなかったのかもしれません。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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