【愛嬌のない人】わかっていると思いこむことの怖さ【バカの壁】

バカの壁

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

『バカの壁』という本が一世を風靡しましたね。

著者の養老孟司はあの本の中で何を書きたかったのでしょう。

時々考えることがあります。

一言でいえば、「知っている」とは何かということです。

本当は何もわかっていないのに、「わかっている」と思い込んでしまう。

最も怖ろしいことです。

よく彼のところへ学生が質問にきたそうです。

その時によく言われたのが、「説明してください」という言葉だったそうです。

言葉で説明するのは大切なことです。

コミュニケーションの基本ですからね。

しかしそれだけでは伝えられないことが世の中にはたくさんある。

養老孟司はそう書いています。

言葉だけでは理解できないことが世の中には数多いのです。

そんな時によく使った例が陣痛の話です。

陣痛の痛みを口で説明できるのかということです。

出産するところを間近にみれば、幾分は想像できるかもしれません。

しかし男性にとっては永遠の謎です。

保健の教科書をいくら読んでも、やっぱりわかりません。

わかるというのは雑学を仕込むこととは明らかに違うのです。

事実とは何か

これも筆者が述べていることです。

芥川龍之介の『藪の中』という小説を御存知ですか。

後に黒澤明が『羅生門』という映画にしました。

3人の男が同じ殺人事件を証言します。

しかしそれぞれが全く違う。

どこからこれほどの差が出てくるのかというほど、みごとです。

ある意味、自分の都合のいいように解釈しているのです。

人間というのはそういう生き物なのではないでしょうか。

「知っている」「わかっている」などとは口が裂けても言わない方がいいですね。

つまりその事実に迫る方法のなさを知れば知るほど、言えなくなるセリフなのです。

自分の目の前で知らない人が電車に飛び込んだとしましょう。

その時の緊張感と驚きをテレビのニュースで見たという人と同じレベルで共有できるものでしょうか。

全てを体験しなければ何も言えないという意味ではありません。

しかしじっくりと考えてみると、知っているなどと軽々しく発言することもできなくなりますね。

現代はまさに情報化社会です。

次々と新しいニュースが飛び込んできます。

どこで火事があった。

どこで殺人事件があったといっても、それはぼくたちの表層を通り抜けていくだけなのです。

受け止めようもないし、実際にできません。

養老孟司はそれができる存在が世界にたった1人いると書きました。

「神」です。

唯一神ですね。

しかし日本人に1神教はなじみません。

この国にはたくさんの神様がいますからね。

ここまでくると、信仰の領域に入ります。

愛嬌

先日なんとなく本屋さんで立ち読みをしていたら、ある雑誌に載っていたこの言葉に惹きつけられました。

それは愛嬌という表現です。

教育雑誌に掲載されていた記事には、最近愛嬌のない子供が増えていると書いてありました。

テレビの番組などで、およそ子供とは思えない話し方をする場面に出会うこともよくあります。

どこか老成したような発言をする子供を見ていると、それだけでなんとなく厭だなという感情を持つものです。

一言でいえば愛嬌がないのです。

そうした子供達は自分も失敗をする1人の愚かな人間であるというところから、出発できていないのかもしれません。

親たちが子供の誤りを認めようとしないのかもしれません。

仕方なく彼らも自己防衛に走った結果の集大成なのでしょうか。

俗にこまっしゃくれた子供といいます。

まさにそういう子供へのインタビューくらい後味の悪いものはありません。

親の価値観をそのまま反映してしまった結果といえるのではないでしょうか。

かつて小児は白き糸の如しなどと言いました。

まさに親の色に染まった果ての愛嬌喪失ということであるならば、こんなに悲しい結果はありません。

知識をいくら蓄えても、それを自分の血や肉にし、さらには人間性のレベルにまで昇華させることができなければ、むなしさだけが残ります。

かつて清少納言は『枕草子』の中で愛嬌(あいぎょう)の少ない存在として、蠅と梨の花をあげました。

「蠅こそ、にくきもののうちに入れつべく、愛敬なきものはあれ。」

「梨の花、よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文付けなどだにせず、愛敬おくれたる人の顔など見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを…」とあります。

最後の砦

蠅はすぐに理解できますが、梨の花はどうしてすさまじき存在なのでしょうか。

全くわかりません。

日本での評価はこのように大変低いのですが、中国では大変珍重されました。

そのことはこの後にすぐ紹介されています。

よく考えてみると、愛嬌というものほど大切なものはないのかもしれません。

その人がいるだけで座がぱっと明るくなるというのはすばらしいことです。

瞬間的な反応の早さも必要でしょうが、同時にまず挨拶と笑顔のすばらしい人というのはそれだけで、十分に人の心を和ませる存在だと思います。

成績の良さももちろん大切です。

しかし社会に出た時の武器はむしろ愛嬌の方に軍配があがるのではないでしょうか。

自分の失敗や欠点をさらけ出せるものの強さです。

いかに不完全な人間であるのかということを腹の底から知った人間だけに愛嬌が滲み出てくるのです

頭でっかちの秀才には見えないもう一つの確かな世界なのかもしれません。

知ることは確かに素晴らしいことです。

しかしそこまで行くのは大変です。

バカの壁を何度も乗り越えようとして、それでもやっぱりダメという経験が必要なのでしょう。

ものごとはそんなに簡単にわかるものではありません。

世界はつかみどころのないものなのです。

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そう考えられる人にだけ、きっと神は愛嬌を与えてくれるんでしょうね。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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芥川龍之介の名作『羅生門』は誰もが高校で習う小説です。同じタイトルで映画を撮ったのが名匠黒澤明監督です。しかし厳密にいうと、映画の「羅生門」は芥川の別の短編『藪の中』をメインにして描いたものです。2つの作品で事実はどう扱われたのでしょうか。

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