カタカナ語の氾濫
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はカタカナ語が巷に溢れかえっている話をします。
このテーマは小論文の課題に直結します。
毎日の暮らしの中で、外来語に触れないことはありませんね。
カタカナで表記されるこれらの言葉は日々増える一方です。
知らない表現をやっと覚えたと思ったら、また翌日には別の語彙を身につけなくてはならないのです。
あなたはこの現象をどう考えるのかという論点が、今回のメインです。
例として、福祉の現場を例にしてみましょう
多くの表現がカタカナ語ばかりです。
ショートステイ、ケアマネージャー、バリアフリー、ケースワーカー、アセスメント、ノーマライゼーションなど。
高齢者にとっては全てが謎のような表現だといっていいかもしれません。
理由は単純です。
原語をそのままカタカナにしたからです。
最近ではネットやIT関連の用語もほぼカタカナです。
エビデンス、ソリューション、バッファ、ベンチマーク、リテラシー、スキームなど。
以前ならば、職務に携わる人のための専門用語であったものが、今では誰でもが遭遇するところまで下りてきました。
わかろうと努力しない限り、取り残されていくしかありません。
ではどうしたらいいのでしょうか。
カタカナ語の氾濫を容認すべきかどうか。
その問題を考えてみようというのです。
課題文として『日本語はだれのものか』から抜粋します。
筆者は日本語学者、川口良氏と哲学者、角田史幸氏です。
本文
「言葉の乱れ」の1つの要因として、「外来語の氾濫」が糾弾されているのも、もう定番になりました。
近年の「外来語の氾濫」については、その量と速度が今までになく圧倒的だと感じる人が多いようで、日本語が外国語に侵食されるという危機感を口にする人や、日本語の国際化のためには喜ばしいことだとする人など、賛否両論、侃々諤々の議論があります。
社会のあらゆる分野において、意味のよくわからない外国語が、日本語に置き換えられることもなく、カタカナ語となって怒涛のようにあふれている。
そのような危惧を唱える声に押されてか、国立国語研究所では、わけのわからない外来語を減らそうと、2003年11月までに外来語の言い換え案109語を提案しました。
例をいくつかあげてみましょう。
どちらがわかりやすいですか。
アイデンティティ 独自性、自己認識
アーカイブ 保存記録、記録保存館
インキュベーション 起業支援
グランドデザイン 全体構想
オンデマンド 注文対応
ノーマライゼーション 等生化
インフォームドコンセント 納得診療 説明と同意
リアルタイム 即時
ボーダーレス 無境界、脱境界
マーケティング 市場戦略
外来語弱者といわれるお年寄りや外国人に対する配慮さえ忘れなければ、カタカナ語の増殖にそれほど目くじらを立てることはないと思うのです。
国立国語研究所の外来語の言い換え案をみてもわかる通り、漢語とカタカナ語のどちらがわかりやすいなどということを、一律に決めることは不可能なのです。
そうだとしたら、一人一人がわかりにくい方の語彙を自分の中に新しく取り込んでいってはどうでしょう。
人間一人が所有できる語彙量は限られているともいわれますが、バイリンガルやトリリンガルも決して珍しい時代ではありません。
多様な言葉の存在を知ることは、多様な他者を理解することにもつながるはずです。
「わからない」「わかりにくい」ものを拒否するのではなく、それを理解しようとすることこそが大切なのではないでしょうか。
過去において常にそうだったように、今もなお、同じ日本語の中にバイリンガルやトリリンガルとも比喩されるような他言語が包容されているのです。
そのすばらしさをもっと積極的に享受してみてはどうでしょう。
理解することの大切さ
主な論点が理解できましたか
基本的に受け入れていこうという態度が明確ですね。
多様な言葉の存在を知ることは、多様な他者を理解することにもつながるはずだというのが、文章の骨子です。
わからないからといってそれを拒否してはならないというのです。
以前はあまりにカタカナ語が多くなり、困惑する人たちの様子がマスコミにも取り上げられました。
政府関係の白書にも外来語が多く使われたのです。
それが論議を呼び、外来語使用を自粛するよう通達が出されたこともあります。
しかし、減る気配はいっこうに見えませんでした。
というより、以前より、そのスピードが早くなっているような気がしてなりません。
意思疎通に支障を来たすことをおそれた国立国語研究所の言い換え案は、確かにユニークです。
ところがその効果については、かなり疑問符がつけられています。
新しい概念には新しい言葉が必要なのかもしれません。
ノーマライゼーションとかアカウンタビリティといった言葉は、より内側にまで迫れる力を持っているともいえるのです。
ひどい和製語でない限り、そのままオリジナルの表現を認めても差し支えないという度量の広さが伝わったという一面があるのかもしれません。
当然、いい加減な和製語を正しい言葉だと思い使ってしまい、あとで苦労するなどいうオマケもついてはきます。
ブラインドタッチ、アフターサービス、クレームのような類いの通じない言葉はいくらでもあります。
確かに批判の対象になる表現がないワケではないのです。
YesかNoか
サンプルの設問を次に示します。
このタイプの小論文はむしろ書きやすいとも言えます。
カタカナ語の氾濫について、あなたはどのような考えを持っていますか。具体的な経験をふまえ、800字以内で書きなさい。
これが基本的な問題のパターンです。
結論はどちらでもかまいません。
氾濫が目にあまるというまとめ方でもいいです。
あるいはまったく逆に、現在の社会の趨勢に従うべきだとするのも許されます。
ただしその状況をきちんと解説し、これからの時代はどちらの方が、よりコミュニケーションがスムーズに進むのかという観点を含めて書かなければダメです。
ただ外来語が嫌いだからといったような感覚的表現では、高い評価は得られません。
その言葉が導入されるまでに至った背景を説明しながら、文章を進めていけばいいでしょう。
外来語の氾濫を言葉の乱れと単純に捉えてしまうのは誤りです。
正しい日本語とか美しい日本語という表現が一方にはありますね。
あなたはどのようなものだと思いますか。
言語そのものの持っている歴史性が奪われるから、ダメだという論理も当然成り立ちます。
基本的に賛成反対の議論の根本には、この論点があると考えればいいのではないでしょうか。
あなたが書きやすい方向でかまいません。
カタカナ語を好ましいと感じるのか、好ましくないと感じるのかは、言葉の響きというレベルとコミュニケーションの道具としての言葉という2つの面から見る必要があります。
その両面を見つめながら、文をまとめてみてください。
必ず1度はこの課題に触れた文章を書く練習をしておくことが大切です。
言葉の問題は大変によく出題されます。
それだけ、学ぶことにとって、重要な要素なのです。
ぜひ、試みてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。