【掟の門・カフカ】長編・審判の挿話から独立した不条理な物語【法とは】

掟の門

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は教科書に所収されたフランツ・カフカの短編小説を読みます。

カフカといえばなんといっても『変身』ですね。

お読みになった人も多数いることでしょう。

彼の作品は不条理文学と呼ばれています。

生涯に多くの作品を残しました。

しかし長編はいくつもありません。

『城』『審判』とともに代表作と言われているのが『変身』です。

カミュの『異邦人』『ペスト』と並んで時代の不安をみごとに描き出しました。

唐突な設定に、思わず目を見張ってしまいます。

『変身』は主人公の男が、ある朝目覚めると巨大な虫になっていたというストーリーです。

彼はどこからこの着想を得たのでしょうか。

男とその家族の顛末が描かれる中で、生の持つ不条理性が描写されていきます。

カミュの『異邦人』とあわせて読めば、不安の核心に触れることができるでしょう。

両作品とも名作中の名作です。

カフカはプラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら小説を執筆しました。

使っている言葉にはたくまざるユーモアがあります。

それでいて作品世界には、孤独感と不安が滲み出ているのです。

日常がどうしようもなく続き、その中で人間の存在が砂粒のようでしかないという20世紀の現実をありのままに映し出しました。

21世紀になった今日、彼が描き出した世界は、ますます先鋭化し、先端がめくれあがっています。

ここでは『審判』という小説の挿話として書かれ、後に独立した作品となった『掟の門』を読みます。

カフカの持つ不思議な世界にひたってみてください。

作品のあらすじ

一人の男がやってきて、掟の門の中へ入ろうとします。

掟の門の前には一人の門番がいます。

男に「今は入っていいと言えない」と言うのです。

それでも男が門の中を覗こうとすると、こう呟きました。

あくまで俺は入っていいと言えないと言っただけだから、中に入ろうと挑戦してみるのは構わない。

しかし俺は強いし、仮にこの門を突破したとしても、門はさらに続き、その度にずっと強い門番が現れるぞ。

仕方なく、男は入っていいと言われるまで待つことにしました。

geralt / Pixabay

門の脇に男は座り、結局何年も待ち続けたのです。

その間に何度も中に入れてくれるよう頼みました。

贈り物までしたのです。

様々に手を尽くしたものの、門番の言うことは同じでした。

今は入っていいと言えないと言うだけなのです。

男は何度も不幸を嘆きました。

最初の1年はなりふり構わず声を張り上げていましたが、年老いてしまうともう、ただいつまでもだらだらとぼやくだけでした。

男は、毎日門番をじっと見ていたので、身につけている毛皮の襟巻きにノミがいると気づきます。

男はそのノミにまで、あの門番を説得してくれと頼み込むのです。

やがて男の命は尽きかけます

ついには視力も衰え、男は本当に暗いのか、ただ目の錯覚なのかが、わからなくなりました。

暗闇の中で、掟の門から消えずに差し込んでくる光が、男には今はっきりと見えたのです。

最後に門番に対して、なぜ自分以外の誰も門に入ろうとするものが現れなかったのだろうかと聞きました。

その時に門番が言った台詞はつぎの通りです。

この門はお前ひとりのために用意されたものだからだ、と答えたのです。

そして門番は門を閉めました。

意味の難解さ

この作品を読んで感想文を書くのは、それほど簡単なことではないです。

残念なことに、ぼくは授業で扱ったことがありませんでした。

割合、最近になってから教科書に採択されたのかもしれません。

読めば読むほど難しい小説ですね。

どのようにでも解釈できます。

「掟」という言葉も難解です。

元々の単語をどう翻訳するかで、かなりイメージに開きが出てきます。

ドイツ語の 「das Gesetz」という言葉の元々の意味は「定められたもの」という認識に近いです

そこから「法律」「原理」「真理」という言葉が派生したのでしょう。

多くの本は「掟」としていますが、もとの意味はかなりの広がりを持っています。

もう少し、この内容を深掘りしていくと、どうなるのでしょうか。

たとえば「法」というイメージで捉えた時、それは結局のところ、人間によってつくられたものという側面を持ちます。

この小説でいうところの「掟の門」です。

最初は「真理」を追究して「正しい」と信じ作ったものが、やがてそれを守る門番にとって、定めてあるのだから「正しい」と意味が逆転していきます。

最後にはその成立した時点での事情を忘れることさえ、人にはあるのです。

悪法も法だと叫んだソクラテスの発言が、この場面になぜか重なりますね。

正義とは何か

ヨーロッパ人であるカフカにとって、当然神の存在は頭のどこかにあったでしょう。

宗教的な真理もあれば、哲学的な真理もありえます。

それがやがて法になり、正義となっていくワケです。

しかし所詮、人間の考えることです。

どれが正しく、どれが誤っているのかを、容易に判断することはできません。

そこにこの短編を理解する鍵があるといってもいいのではないでしょうか。

本文は「青空文庫」で読むことができます。

短いので、10分とかかりません。

なぜ今日まで残っているのかといえば、現代の社会問題とからめて考えてみようとする人々が存在するからです。

カフカの文学はいつも難解です。

元になった『審判』とあわせて読んでみてください。

ある意味、解釈を拒否した小説ともいえるのかもしれません。

ストーリーの概略は次のようなものです。

ある朝、Kのもとに監視人が訪れあなたは逮捕されたのだと告げます。

なんのために逮捕されるのかは全く明らかにされません。

ただし逮捕されたとはいえ、普段通りの生活をすることが許されます。

Kはいつもと同じように勤め先の銀行へ出かけて行きます。

日曜日に審理が行われました。

裁判所を訪ねてみると、気分が悪くなったのです。

監視人が鞭で罰せられるのを見かけます。

弁護士に相談したものの事態は進展しません。

そこで聖堂に赴き、僧侶と話をします。

そんな折もおり、Kのもとをシルクハットを被った人が訪れます。

とうとう、Kは処刑されてしまったのでした。

無残に処刑されるまでを描いたこの作品の不可解さは、どこからくるのでしょうか。

Kがどういう罪で訴訟を受けているのかが、最後まで一切明らかにされないのです。

意味のわからない事態と、ふしぎなユーモアに満ちた世界はカフカの作品全体に共通した特徴でもあります。

カフカの世界は寓話そのものです。

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しかし不思議なリアリティに満ちているのです。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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