【故事成語・桃李成蹊】美しい花や果実の木がそこにあるだけで道が【史記】

桃李成蹊

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は故事成語について学びましょう。

有名なものがたくさんありますね。

1つでも知っていると、日常の会話が豊かで深いものになります。

なんとはなしに、話の途中に出てくるものなのです。

内容のあるものはぜひ、覚えておきたいです。

今回扱うのは、1度は耳にしたことがあると思います。

読み方がわかりますか。

漢文の授業で学んだはずです。

出典は『史記』の「李広伝賛」です。

『史記』は司馬遷が生涯をかけてまとめた中国の歴史書です。

中国前漢、武帝の時代に書かれました。

およそ3000年の歴史が記載されています。

その中にこの一節が出てくるのです。

「桃李もの言わざれども下(した)自ずから蹊(みち)を成す」と読みます。

あるいは「蹊」を「けい」とそのまま読む人もいます。

桃と李(すもも)は中国を代表する花です。

美しい花々や果実がそこにあるだけで、人はいつの間にかその下を歩くようになります。

その結果、小道ができあがるというのです。

桃と李は人格者の譬えです。

本当に徳のある人は言葉を発しなくても,人はその徳を慕って集まるというのです。

これは「李将軍列伝」最後の部分の文章です。

司馬遷が李将軍を評するのに使った諺なのです。

李将軍は、文帝・景帝・武帝三代に仕えた名将、李広のことです。

李陵の祖父にあたります。

弓術に優れ、「漢の飛将軍」として匈奴に恐れられました。

しかし不遇な一生だったと言われています。

それだけに司馬遷は、その徳を書き残したかったに違いありません。

本文

太史公曰はく。

伝に曰はく、「其の身正しかれば令せずして行はれ、其の身正しからざれば令すと雖(いえど)も従はれず。」と。

其れ李将軍の謂(い)ひなり。

余李将軍を睹(み)るに、悛悛(しゅんしゅん)として鄙人(ひじん)のごとく、口(くち)道辞(どうじ)する能(あた)はず。

死の日に及びて、天下知ると知らざると皆為に哀しみを尽くせり。

彼の其の忠実心、誠に士大夫(したいふ)に信ぜられたるなり。

諺に曰はく、「桃李(とうり)言はざれど、下自(おの)ずから蹊(みち)を成す。」

此の言小なりと雖も、以て大を喩(たと)ふべきなり。

「注」

太史公:『史記』を著した司馬遷の自称

悛悛: 慎み深い様子

李将軍: 李広(りこう)のこと 中国 前漢。

漢の対匈奴戦で主要な役割を果たした。

史記に独立した列伝を立てられた勇将であり、弓の名手で、部下をよく愛した。

現代語訳

太史公(私・司馬遷)が言いました。

昔からの言い伝えに「その身が正しければ命令しなくても実行され、その身が正しくなければ命令しても人々が従うことがない」というのがあります。

これは、李将軍のことを言っているようなものです。

私が李将軍を見たところ、彼は慎み深く、田舎者のようで、口が達者というわけではないようでした。

しかし、李将軍が亡くなった日には、彼を知る者も知らない者も、皆深く悲しんだのてす。

彼の忠実な心は、多くの士大夫に信用されていたものでした。

諺に「桃や李(すもも)は何も言わないが、その下には、自然と小道ができる」というのがあります

美しい花や果実に誘われて人が自然と集まってくるのです。

結局、その下には自然と小道ができるということなのです。

この言葉そのものは、小さな譬えに過ぎません。

しかしよく考えてみると、人生の大切な教訓ともとれる言葉でもあるのです。

侏儒の言葉

芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で「桃李言はざれども、下自ら蹊を成す」について言及しています

「桃李言わざれども、下自(しもおのづ)から蹊を成す」とは確かに知者の言である。

もっとも「桃李言わざれども」ではない。

実は「桃李言わざれば」である。

この文章はどういう意味で書かれたのでしょうか。

桃や李は「なにも物を言わないけれども」、人がその花や実を求めて集まってくるというのが通常の意味です。

しかし芥川はシニカルな側面を多分に外に出しています。

実は、「なにも物を言わなかったなら」、人は集まらなかったと言っているのです。

彼はそれ以上、何も説明していません。

どこが違うかわかりますか。

ものを言うという行為をどのように捉えるかで、かなり意味が違ってきますね。

発言したいけれど口にはしない。

ものを言ったからこそ人が集まった。

ものを言わないと人は集まらないものだ。

どのように解釈すればいいのでしょうか。

芥川龍之介は何が言いたかったのか。

桃や李を人格者と捉える多くの発想を、拒否したかったとも読めます。

本当のところはわかりません。

侏儒というのは身体が小さく、見識のない人のことをさします。

つまり芥川龍之介が自分を謙遜して使った表現なのです。

シニックな彼の一面がアフォリズムとなってたくさん示されています。

理解するのは難しいですが、ぜひ1度は手にとってほしいです。

含蓄のある言葉がたくさん散りばめられているのです。

わずかに表現をかえるだけで、意味が大きく変化するのが言葉の持つ力です。

そのことを重く受け止めてください。

故事成語は深い意味に富んだ表現に満ちています。

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今後も機会があれば取り上げていきます。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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