【大鏡・三船の才】歌人藤原公任の才能を知り尽くしていた道長の眼力

三船の才

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

教科書には実にさまざまな話が載っています。

高校の授業で、その全てを学習することは無理でしたね。

古典はほぼ毎年持ちましたが、所収されている内容の3分の2を消化したかどうか。

選択授業まで含めると、かなりの時数だったような気がします。

それでもやり残してしまいました。

誠に残念です。

いずれも名文ばかりでした。

ここのところ、かつての教科書を丹念に読んでいます。

全く知らなかった文章に触れると、とても新鮮です。

当時は文法をまず教えなければなりませんでした。

どうしても入試を意識せざるを得ません。

特に助動詞の用法や、敬語の識別などの習得には時間がかかるのです。

生徒はどこまで理解できたのか。

今、考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになりますね。

せめて、このブログでは古典の文章に触れながら、その味わいを一緒に学べればと思います。

今回は藤原公任(きんとう)の話をしましょう。

当時は歌人の最高峰にいた人といっても過言ではありません。

関白太政大臣・藤原頼忠の長男です。

官位は正二位・権大納言。

小倉百人一首にも歌がとられています。

『和漢朗詠集』の撰者としても知られているのです。

つまり漢文も古文もできた人です。

そうした背景を頭の隅において、この文章を読むと、また違った余韻が味わえます。

「三船の才」あるいは「三舟(しゅう)の才」という言葉があります。

聞いたことがありますか。

今回の文章は、その故事成語がなぜ生まれたかという背景を説明したものです。

本文

一年、入道殿の大堰川に逍遥せさせ給ひしに、作文の舟、管弦の舟、和歌の舟と分たせ給ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言の参り給へるを、入道殿、

「かの大納言、いづれの舟にか乗らるべき。」

とのたまはすれば、

「和歌の舟に乗り侍らむ。」

とのたまひて、詠み給へるぞかし、

小倉山嵐の風の寒ければ 紅葉の錦着ぬ人ぞなき

申し受け給へるかひありてあそばしたりな。

EliasSch / Pixabay

御自らものたまふなるは、

「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。

口惜しかりけるわざかな。

さても、殿の、『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし。」

とのたまふなる。

一事の優るるだにあるに、かくいづれの道も抜け出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。

現代語訳

ある年、道長入道殿が大井川で舟遊びをなさったとき、舟が三つ用意されました。

一つは漢詩を作る作文の舟、二つ目は和楽器を楽しむ管弦の舟、そして三つ目は和歌の舟と分けたのでした。

そして、それぞれの舟にその道の達人をお乗せしたのでございます。

その時、公任大納言が参上なさっていらしたので、入道殿(道長)は、

「あの大納言(公任)は、どの舟に乗りなさるのだろうか。気になって仕方がない。どれに乗っても立派な振る舞いをされる方だしな。」

とおっしゃったところ、

大納言殿はご自身で、「和歌の舟に乗るつもりでございます。」とおっしゃって、和歌の舟を選ばれました。

大納言殿が舟の中でお詠みになった歌がこれでございます。

小倉山あらしの風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき

秋になると、小倉山では嵐山からの冷たい風が強く吹いてきます。

紅葉もみごとに落ちて、まるで人がみんなその葉をまとっているかのようです。

さすがに大納言殿は、ご自分から申し出ただけあって、とっても上手にお詠みになることでした。

でも、ご本人は「漢文の作文の舟の方に乗ったらよかったかもしれませんね。

漢文の舟でこの和歌くらいの漢詩を作ったら、今以上に名前があがっただろうに、ちょっと失敗でした。

そうは言っても、入道殿が、『大納言はどの舟にするかと思うか。』とおっしゃられたのには、ちょっと自慢したい気持ちになるよ。」

とおっしゃられました。

先ほどの入道殿のご発言は、入道殿が大納言殿の三つのどの才能も認めているということの証だとお考えになったのでございます。

和歌よりも漢詩

最後の公任の発言の意味が分かりますか。

当時は和歌よりも漢詩のほうがより高度なものとして重要視されていたのです。

「和歌の船」ではなく本当は「漢詩の船」に乗って優れた漢詩を披露すればより名声を得ることができた、と公任は少し悔しがっているのです。

彼は文章の最後にも書いてある通り、和歌だけが得意なワケではありませんでした。

漢詩や音楽の道にも通じていたのです。

つまり博学多才という男性として、最高のレベルに達していたということです。

そのことを象徴するかのように、道長は公任に対して問いかけます。

あなたはどの船にお乗りになるのですかという質問です。

つまりあなたはどれに乗っても一流の才能をお示しになることができる、と言外に述べているのです。

『和漢朗詠集』というのは、日本人がつくった漢詩の本です。

今でいえば、英語やフランス語などで書いた日本人の詩を、選んで本にしたという佇まいでしょうか

あなたの才能を認めていますよというのが、道長の余裕の表れです。

寛和2年(986年)、一条天皇の即位に伴って、藤原兼家が摂政となります。

同年7月には一条天皇の生母として皇太后となった藤原詮子の力が存分に発揮されるようになったのです。

兼家の息子、藤原道長はこの時点で従五位下の位階にありました。

しかし翌永延元年(987年)には一挙に従三位まで昇進してしまいます。

公任は瞬く間に位階を追い越されてしまっているのです

つまり官位の差がこの頃から歴然としてきます。

政治へのエネルギーが褪せていくにつれ、彼は歌壇に残ることを画策します。

和歌の世界の重鎮たちが、次々に世を去っていきました。

『拾遺和歌集』を編纂する際に最初に名前があがったのが公任でした。

彼は30歳前半であったといわれています。

道長との関係は紆余曲折の連続です。

接近し、迎合する時もあれば、それが必ずしもうまくいかない時もありました。

最後は昇進を諦め、出家をします。

享年76歳でした。

この話は『大鏡』にあります。

彼のうぬぼれととともに、当時の政治情勢を知るにもいい資料です。

小倉百人一首の55番には彼の有名な歌が残っています。

滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

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公任の歌の代表といっていいでしょうね。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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