【小論文・キャラと役割】居場所を探すために苦労する寂しい人間の関係

小論文

キャラと役割

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は誰もがよく使う「キャラ」について考えましょう。

この表現はよくご存知ですね。

性格や人格をあらわすキャラクターという言葉を短く言ったものです。

特徴的な使われ方もいくつかあります。

1番、頻繁に見るのは「キャラが濃い」「ゆるキャラ」などという言葉です。

非常に個性が強い場合などは、キャラが濃いという言い方をしますね。

各地方のマスコットなどは「ゆるキャラ」と呼ばれることが多いです。

人々の緊張をゆるめる作用があるのでしょう。

その他にも「まじめキャラ」「バカキャラ」「癒やしキャラ」などといくらでもでてきます。

全人格的な要素を持っていますので、その性格を演じるという側面がないワケではありません。

今年に入って、日本テレビの人気番組『笑点』の出演者が1人かわりました。

その時に最も話題になったのが、誰かという以前に、キャラクターがかぶらないかということでした。

既存の落語家と似たキャラの人の場合、笑いへの演出が難しくなるからです。

この考え方は職場でも学校でも、よく使われますね。

クラスの中でも自分がどういう位置をとればいいのかということに、生徒は腐心しているようです。

それがうまくいかないと、登校できなくなる可能性すらあります。

「キャラ」や役割を強制する社会というのは、どこか息苦しさを持っています。

日本の社会における集団主義の問題とも絡むテーマです。

以前、入試でもこうした論点が何度も出題されました。

過去問をみてみましょう。

哲学者、鷲田清一の文章です。

課題文

いつ頃からか、「キャラ」という言葉をしばしば耳にするようになった。

言うまでもなくキャラクターの略で、たとえば人を指して「キャラが薄い」というような言い方をする。

存在感に乏しいという意味らしいのだが、一つ気になる言い回しがあって、それは「キャラがかぶる」というものである。

テレビのショー番組であれ、実際の人間関係においてであれ、ひとつの場に同じタイプの人物がふたりいる時にそう言う。

これは明らかにディレクターの眼である。

ディレクターの眼で、周囲を見回し、そして他人のキャラクターとのバランスで、自分のあるべきキャラクターを確認する。

かぶれば下りる。

この種の判断力にはかなり微細なところ、鋭いところがあり、キャラクターの配置がまずいと、とくにキャラがかぶったりすると、あるいはそのキャラに演技性が透いて見えたりすると、番組はすぐにそっぽを向かれる。

そういうところから「天然ボケ」が重宝されるわけで、ボケはもはやかつてのようにクリティカルな攻撃性を潜ませた高度な「芸」ではなくなる。(中略)

そしてそのディレクター的感覚が、そのまま日常の人間関係の中にも差し込まれる。

人々はよく「居場所を探す」とか「自分の居場所がない」という言い方をするが、その場合の居場所とは、じつはこのキャラのかぶってない場所というものなのかもしれない。

かぶらないキャラというかたちで自分のいるべき場所を探す、言ってみれば椅子取りゲーム、そういうものに日常の人間関係じたいがなっている。

居場所を探すというのはどこか痛ましい表現である。

ひとはそこで自分の存在を「ただある」というだけでは認めることができず、全体の配置の中で他人に認めてもらえるような何か意味のある場所を探さざるを得ないからだ。

問題

実際の文章はもっと長いものです。

読むだけでかなりの時間を費やします。

本番の入試に向けて、読解力をつける必要もありますね。

問題1は次の通りです。

著者は「居場所を探す」というのはどこか痛ましい表現であると述べているが、本文をふまえて、その理由を400字以内で書きなさいというものです。

実際は後半の文章からもう1つ、制限字数400字で書く問題が出ています。

その内容もここに示しておきます。

問題2 『ひとりの「人」として言葉を交換できるような場』が構想されていいとありますが、あなたはどう考えますか。意見を400字で書きなさい。

問題2の方が小論文に近いです。

課題文を掲載していないので、難しいかもしれません。

課題文の最初の部分から類推してみてください。

簡単にいえば、キャラクターに頼らない自分をそのまま表現するということです。

ここでは問題1の要約について最初に考えましょう。

この要約がきちんとできれば、問題2の書き方も自ずから決まってきます。

居場所を探すのはどこか痛ましいという表現に着目してください。

これがキーワードです。

なぜなのか。

なぜ痛ましいのか。

大切なのは自分の存在が無視されてしまうのではないかという恐怖です

集団の場からはじかれる強迫感ともいえるでしょう。

それを避けるために「キャラ」を演じなくてはならない。

それを続けることはとても疲れることです。

本来ならば、もっと自然に自分をさらけ出したい。

しかしそれができないのです。

そこにいることの意味をつねに主張しなければいけないからです。

はじかれる恐怖は味わいたくない。

その姿が筆者から見ると「痛ましい」のです。

「キャラ」を演じ続けることの息苦しさを実感として示せればいいのではいでしょうか。

YesかNoか

問題2についても考えましょう。

「キャラ」によって発言するのではなく、ひとりの個人として言いたいことを述べることの必要性を筆者は説いています。

あなたはどちらの立場にたてそうですか。

どちらでもかまいません。

それ自体には特別の意味はありません。

ポイントは論理の一貫性です。

本当の個人主義を貫くというのが、これからの生き方であるべきだという路線です。

日本の集団主義に対する批判を同時に書き込んでもかまいません。

ただし400字しかないので、要注意です。

理由のところがきちんと書けていれば、合格答案になります。

相手の地位や身分を意識せずに表現できる可能性について論じてください。

反対の場合は、自分の「キャラ」をわきまえて発言するからこそ、社会が回転していくという考え方です。

社会的な存在である人間が、全くそのことを意識せずに発言すれば、当然そこに大きな軋轢が生じます。

geralt / Pixabay

それを覆すだけのエネルギーを容易に手にできないならば、むしろただ空しい主張を繰り返すよりは、より生産的な発言をしていく方がいいという考え方です。

自己主張の言い合いは、時間の無駄であるだけでなく、生産性を著しく低下させるという論理です。

だから筆者の論点には反対だという書きかたで進めばいいでしょう。

もちろん、中立的な内容の文も可能性としてはあります。

「キャラ」と人間関係の問題は日本人論ともからむ、複雑な内容を伴います。

したがってそちらに重点を置きすぎると、400字ではとてもまとめきれません。

内容を極度にしぼることも大切です。

何度もYesNo、それぞれの立場で書く練習をしてください。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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