AI時代の学力
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
AIの時代になりました。
知識を重視する今までの教育を見直そうという機運が盛り上がっています。
記憶することは既にコンピュータが担っています。
彼らと正面から戦って勝てる人間はいません。
チェスの戦いでも既に負け続けています。
将棋も囲碁も、今はコンピュータに戦局を判断してもらうところまできました。
勝率を瞬時にはじき出してしまうのです。
あらゆる可能性を判断するといった作業は、少し前まで人間だけに可能なものだったのです。
しかし今は違います。
AIはあらかじめ決められた条件にそって次々と結論を塗り替えていくことができます。
もちろん、データは人間が作成したものです。
それをひたすら機械はインプットしていくだけなのです。
だからといってAIが劣っているワケではありません。
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残念なことに人間は忘れます。
しかし機械は絶対に忘れません。
どう考えても勝てるワケがないのです。
学校で習った歴史の年号も、円周率の数値も、コンピュータの方が正確です。
となると、これからの時代は記憶に頼る従来の学力観では生き残れません。
それでは人間だけにできるものは何か。
徹底的に探さなくてはならなくなりました。
想像と創造
1番最初に思いつくことは何でしょうか。
それは想像し創造することです。
これは語呂合わせで言っているのではありません。
何もないところからまったく新しいものを作り出していくことです。
条件をインプットできない未知の案件を思いつき、そこから方法論を展開していく。
「あなただったら実際どうするのか」という問いです。
学問は最終的に人間をかえるものです。
その人の資質にプラスされ、世界観に大きな影響を与えます。
人生の中でそれが意義あるものとして認識されなければ、なんの存在価値もありません。
ただものを知っているだけの歩く辞書では無意味です。
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わかりやすく言えば、人間力のある人になるためのものでなくてはなりません。
新しい学力観にそっていろいろな話し合いが行われてきました。
当然、大学入試でも検討が続けられたのです。
しかし結果はどうでしょうか。
書かせる問題を強く押し出したにも関わらず、腰くだけに近いものになりつつあります。
なぜか。
評価が非常に難しいのです。
少ない人数を採点するのとはワケが違います。
数十万人単位の受験生の答案を読むとき、どういう苦労があるのか。
それは均一な正当性ということです。
採点者によって採点の仕方に不合理があってはなりません。
しかしそれができないのです。
この年号の日に誰がどのようなことをしたのかという事実については設問にできます。
しかしそのことによってその後の社会がどう変化したのかについての意見を、自分の視点から書きなさいとなるとどうでしょう。
評価は採点者によって大きな幅を持つことになるのです。
かわり映えのしない入試
昨年、初めての共通テストが行われました。
結局、さまざまなケースを勘案した結果、以前のセンター入試に近いものになってしまったのは、ご承知の通りです。
2022年春に実施される第2回目の大学入学共通テストはどうでしょうか。
その結果をみて判断しなければなりません。
しかし英語の外部入試も実施は見送られるようです。
人間力を測る試験を実施するのがいかに難しいのかはこれだけでもよくわかります。
もちろん新しい学力観に敏感なのは大学だけではありません。
私立の小学校、中学校などは以前の知識偏重教育から抜け出すために必死です。
自分で考えられる子供をつくることで、生き延びようとしているのです。
創造的思考力をより強くするために、何をすればいいのか。
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そこに登場したのがプログラミング教育でしょう。
複雑な思考のパターンを1人で切り開いて目的のプログラムを完成するという流れは新しい時代にふさわしいものになりつつあります。
ただしここで問題なのは教える側の負担です。
従来の記憶中心型の教師ではできません。
その場で子供たちと柔軟に渡り合える資質を持った人が必要なのです。
このことは高校段階でも同様です。
大学入試に「情報」の科目が入ることが確実になりました。
今までは単位数が少ないため、常勤の教師は配置されていないという実態があったのです。
今後は小学校段階から論理的思考力を養うための授業も展開されるでしょう。
タブレットを配置するのはもちろん、コンピュータを操るシーンが多々みられるはずです。
読解力
問題はそれだけではありません。
最終的には、自分の伝えたいことをいかに論理的に組み立てながら伝えるかという問題になります。
コミュニケーション能力の育成が喫緊のテーマなのです。
黙っていたのでは存在しないのと同じという考え方が欧米にはあります。
短くてもいいからプレゼンのできる能力が必要です。
しかし日本の国語の授業では作文はあっても論文を書かせることはありませんでした。
論理で組み立てていく授業はやってみると、大変に難しいのです。
作文を書けという先生は、今までどこをなおしてくれたのか。
「てにをは」と漢字の誤りだけです。
心情にそった内容には赤丸をつけてくれました。
しかし論理の組み立てまでを添削してくれた人は多くありません。
言葉の使い方を知らないまま、上級学年になってしまったのです。
アウトプットが大切です。
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最近の若者は読書量が極端に減っているという指摘もあります。
インプットも少ない上にアウトプットもしない。
これでは論理の整合性を問う設問や小論文に耐えられるはずがありません。
受験前に慌てて、準備をしても無理です。
言葉が出てきません。
語彙力も乏しいのです。
言葉の量は知性に正比例しています。
表現された内容から国語力だけでなく、今後の伸びしろが見えてしまうのです。
新しい時代の学力を作るための道はいくつもありません。
読むことと書くことです。
なんだそれだけかと言わないでください。
それも論理性の強い文章を書ききることです。
先生に頼ることができなければ、自分からメンターを探さなくてはなりません。
AI時代に取り残されないためのメソッドは幾つもないのです。
書ける人間になることです。
そこから創造力が生まれてきます。
もう1度じっくりと考えてみましょう。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。