【モモ・童話】盗まれた時間の意味を女の子に教えられた【時間泥棒】

モモと時間どろぼう

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

『モモ』は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデの作品です。

1973年に刊行されました。

日本でもとても人気のある作品です。

この作品の中にメッセージを見い出すのはある意味でわかりやすいです。

『モモ』の副題には「時間どろばうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」とあります。

つまり「時間」を盗もうとするもの(それが仮に何であっても)との対決の話なのです。

「時間を大切にしよう」という陳腐な話だといってしまえば、それだけのことです。

しかし時間とは何かということになると、話は全く違ってきます。

月日は百代の過客だという書き出しで松尾芭蕉は『奥の細道』を書きました。

過客というのは過ぎ去っていく旅人であるという意味です。

これは中国の詩人李白の『春夜桃李園に宴するの序』からとったものです。

夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。

このフレーズを聞いたことがありますか。

光陰は矢の如しという言葉もありますね。

人間は時間との戦いの中で生きていくのです。

しかしその時間を奪われるとなると、話はガラリと変わります。

実際は泥棒に騙されてしまうのです。

この本は小学生でも読めます。

大人になっても読めるのです。

この童話を意識したのは、作者のエンデがシュタイナー学校の卒業生だったからです。

ルドルフ・シュタイナーの名前を御存知でしょうか。

教育学者であり、哲学者でもあります。

シュタイナー教育について関心のある人はぜひ『ミュンヘンの小学生』と『ミュンヘンの中学生』(子安美知子著)を読んでみてください。

あらすじ

モモは古い廃墟の広場に住む女の子です。

彼女はみすぼらしく自分からは何もしません。

ただできるのは人の話を真剣に聞くことだけなのです。

大人も子供も、モモのところへやってきて話しこんでいきます。

町は彼女の存在のせいで不思議と明るくなり、人々は豊かな気持で暮らすようになりました。

しかしそこにやってきたのが時間どろぼうの一味でした。

帽子からくつ下、靴に至るまで灰色であるだけでなく、顔、カバン、手など全てが灰色なのです。

彼らは町の人達に甘い言葉をささやき、時間を貯蓄しろと勧めます。

象徴的な場面は念入りな仕事をすることで評価の高かった床屋をだますところです。

床屋のフージーは自分の持っている残りの時間を全て計算され、紙に書かれた瞬間から、死への道のりが近いことを知ります。

母との対話に費やす時間、飲み屋に行き友と会い、また本を読む時間、家事をする時間。

足が悪くて車イスから離れられない女性のために毎日花を送りとどける時間。

それらの全てを時間貯蓄銀行にあずける契約をしてしまったのです。

灰色の外交員たちは時間の節約の仕方をさらに続けます。

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たとえばですよ、仕事をさっさとやってよけいなことはすっかりやめちまうんですよ。

ひとりのお客に1時間もかけないで15分ですます。

年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。

いちばんいいのは安くていい養老院に入れでしまうことですな。

そうすれば一日にまる1時間も節約できる。

それに役立たずのボタンインコを飼うのなんか、おやめなさい。(中略)

ついでにおすすめしておきますが、店の中に正確な大きい時計をかけるといいですよ。

それで使用人の仕事ぶりをよく監督することですな。

フージーのその後

フージーはその日からどうなったのでしょうか。

彼は次第に落ち着きのない人間、怒りっぽい人間になっていきました。

すべてを事務的に処理しようとし、心をこめてするということの意味を失ったのです。

時間節約が町の合い言葉になる中で、モモは自分のいる場所がなくなりつつあることを知ります。

子供達は将来のためになることだけに精を出し、空想を働かせることを忘れ飽きっぽくなっていきます。

『モモ』の中でエンデ自身、子供は遊びを自分で開拓していく能力があると述べています。

2つか3つの箱、破れたテーブル掛け、小石があればいいのです。

それらに想像力を加えることで子供の世界は飛躍するというのです

しかし灰色の男たちの術策にはまった子供たちは、時間どろぼうの好みにあった訓練を受け続けます。

全ては未来のために、十分ためになるやり方で。

なんだか読むのがつらくなりますね。

自分のことを言われているような気がしませんか。

俗にいう柔かい管理の構造そのものです。

子供の塾通いもそうかもしれません。

ただ「安定」を求めてひた走っている自分の姿が見えてきます。

その中でモモのように「なぜ?」を繰り返せば、ドロップアウトの瞬間が余儀なくやってくるような気がするのです。

観光ガイド・ジジ

もう1つの挿話として、観光ガイドのジジの話も象徴的です。

ジジの話はモモに話しかける時にだけ豊かなイメージにふくらんでいきます。

春の野のように花ひらく彼の話はやがて灰色の男たちに利用され、彼自身以前から抱いていた願望と相まって有名な物語作家ジロラモ(ジジ)の誕生となります。

ただし彼が得たものは富と名声のかわりに、スケジュールに追い回される時間との戦いだったのです。

モモがやっと彼の邸宅を探しあてて話をしようとすると、秘書にさえぎられ、空港へ急ぐジロラモの姿しか垣間見ることができません。

自分の中で物語が枯渇しているのを一番よく知っている彼は、なんとかモモと話をしようとします。

ところがそれもスケジュールにはばまれて成功しないのです。

しかし物語の生産はあくことなく繰り返されなければなりません。

ジジ(ジロラモ)の自嘲は重くるしい響きを持たざるを得ないのです。

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モモ、一つだけ君に言っておくけどね、人生でいちばん危険なことはかなえられるはずのない夢がかなえられてしまうことなんだよ。(中略)

ぼくにはもう夢が残っていない。

きみたちみんなのところに帰っても、もう夢はとりかえせないだろうよ。

もうすっかりうんざりしちゃったんだ。

『モモ』では後半、彼女が「時間の花」を見、時間の国の王に会うところから話が急展開して解決へ向かっていきます。

そのための道案内はカメのカシオペイアです。

背中に光る文字を示しながら彼は時間の国の王のところへモモを導きます。

そこで彼女がはじめて見た「時間の花」は美しいものでした。

これは全編を通じてのクライマックスです。

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それはモモがいちども見たことのないほど、うつくしい花でした。

まるで光り輝やく色そのものでできているように見えます。(中略)

星の振り子はしばらく花の上にとどまっていました。

そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないながらもずっとあこがれ続けてきたものはこれだったような気がします。

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これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です。

時間とは何でしょうか。

難しい問いです。

管理されることになれた我々にとって今や最も自由にならないものの1つかも知れません

近代的な工場、生産管理、マニュアル。

均質な製品を産み出すことで文明は進んできました。

その事実を否定することはできません。

しかしエンデの問いは重いのです。

彼はある種の感覚として誰もが持ってはいるが、言葉にはなかなかならなかった時間を、私たちの前に提出しました。

内容の深さに比べてこの作品自体が持っている明るさはおそらくイタリアのローマを想定して書いたところからくる光の量に比例しています。

『モモ』は子供の童話ではありません。

そのベクトルは間違いなくあなたに向かっているのです。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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